映画『(秘)色情めす市場』(まるひしきじょうめすいちば)
私は「にっかつロマンポルノ」があまり好きになれなかった。
まずリアルタイムで観たことがなく、後々「名作」と言われたものを観るようになったが、「名作」という前置詞によりストレートに観られなかったことと、描かれるセックスシーンが肯定しにくいものだったからだ。
ただ、「にっかつロマンポルノ」の様式を知らなかった無知が原因の大半を占めていた。
「にっかつロマンポルノ」は「何分間に何回のセックスシーン」という決まりがあり、それ以外は全く制約がなく監督は自由に映画製作ができたのだ。
若手監督の活躍の場所となったことは紛れもない事実だ。
だから逆転の発想で、セックスシーンを度外視して観ると「映画」が見えてくる。
これは性的なものを無視しろと言っているのではない。
性的なものは人間にとってけして小さくないし、場合によっては人生の大半を規定する場合もある。映画中で表現されるセックスシーンを「性的なもの」として見るということだ。
今では一般映画の方がセックスシーンとしては過激な場合が少なくない。
だから今「にっかつロマンポルノ」を観る土壌ができているのかもしれない。
この作品のリアリズムは芹明香のリアリズムだ。
芹は肌荒れしていて、やせぎすで、物憂い言葉を吐く。
疎外、不遇をそのまま体現している。
演技という地平から全く縁の無い所にいるのかもしれない。
だから、誰ともかみ合わない。母である花柳幻舟とも宮下順子とも、だ…
そこにシーンのリアリズムが重なる。
釜ヶ崎周辺をオールロケーションしているのだが、あいりん労働福祉センターのシャッターが上がるところから始まる。
その街を芹がひとりで歩く。
労働者の間を縫って歩く。シャッターの前で寝ている者がいる。
店に人が溜まっている。
路面電車の阪堺電車の線路を横切る。
ジャンジャン横丁の入口のガードで客引きをする。
常に通天閣と大坂城が見える。
そして色々な店。
その中にビンゴ店が出てくる。
これは懐かしかった。上野にもありあの特有の抑揚で番号を読み上げるのだ。
飛田の木造建築も出てくるし、百番のカンバンも見えた。
安藤庄平のカメラが説得力がある。
1974年
監督:田中登
脚本:いどあきお
撮影:安藤庄平
チャンさん熊谷冤罪事件 2007年12月17日
チャンさん熊谷冤罪事件
本日同事件の判決が東京高裁であった。
裁判長の原田國男は控訴棄却と判決した。
判決要旨は驚くベき物だった。
直接証拠は無い、動機も無いと認定した。それだけを聞いていると推定無罪の論理に聞こえる。またアリバイ証言の目撃証言を、被告によるその場所の他の状況説明が不自然であるがゆえに採用しないという論理を展開した。
そして、被告は「犯人でないから」出頭(自首)しているにも関わらず、コードをスーパーのゴミ箱に捨てたことや、公園に行ったことなどが、証拠隠滅、逃走行為と認定し犯人性を高めるものと断じた。
追伸 2014.5.31
判決公判は悲惨だった。チャンさんは主文(懲役13年)をきいたあと、そこにはいたくないと泣きながら退廷した。上告審も門前払いだった。真犯人性の高い存在がいるにもかかわらず、目の前の冤罪を救えなかった思いは辛い。
チャンさん熊谷冤罪事件
本日同事件の判決が東京高裁であった。
裁判長の原田國男は控訴棄却と判決した。
判決要旨は驚くベき物だった。
直接証拠は無い、動機も無いと認定した。それだけを聞いていると推定無罪の論理に聞こえる。またアリバイ証言の目撃証言を、被告によるその場所の他の状況説明が不自然であるがゆえに採用しないという論理を展開した。
そして、被告は「犯人でないから」出頭(自首)しているにも関わらず、コードをスーパーのゴミ箱に捨てたことや、公園に行ったことなどが、証拠隠滅、逃走行為と認定し犯人性を高めるものと断じた。
追伸 2014.5.31
判決公判は悲惨だった。チャンさんは主文(懲役13年)をきいたあと、そこにはいたくないと泣きながら退廷した。上告審も門前払いだった。真犯人性の高い存在がいるにもかかわらず、目の前の冤罪を救えなかった思いは辛い。
哲学書と書道 精神現象学が出た 2007年12月14日
「哲学書」(けして「哲学」ではない)は書道に似ていると思う。
書道の凄さは「読めないのに美しい」と感じるからである。これはキュービズムよりもアブストラクトよりも凄いことかもしれない。なぜなら「文字」は具体的、具象的なコミュニケーションツールだからだ。
なぜ「哲学書」(特にカント、ヘーゲル)もそうなのか?
読むと読める、逆に読み出したら止まらない、しかし理解不能。
竹田青嗣はその解法としてこう言った。
「翻訳がわるい」
今年の初めに彼は、ちゃんとした訳でヘーゲルの「精神現象学」を年内に出す、と宣言していた。それが12月10日に出た。(西研との共著)
さっそく買って貪るように読んだ。今まで2度挫折している。少なくとも書道的な美しさは増している。3度目の挫折の予感はある。
しかし、竹田青嗣の巻頭言と西研の巻末言は出色である。
竹田はヘーゲルに持っていた「負の評価」が解読と共に逆転したと言い「近代実証主義の素朴客観主義や、マルクス主義の決定論や、分析哲学およびポスト・モダニズム思想の方法的相対主義の限界に対する、最も本質的な批判となっている」と驚いている。
西はヘーゲルが「自由を基盤とした社会を構想した」とし、「ここ(精神現象学)には、近代の自由の行き着く先に、広義・狭義の表現の営みが豊かに展開される社会が生まれるというヴィジョンが読み取れる」と言う。
そして、「日本の社会を生きる私たちは「不干渉の自由」を得てきた。しかしそこにとどまらず、さまざまな仕方で互いに関わり合い共振しあうような、そういう生の次元をつくりだすこと。そういうあり方のなかに真の自由をヘーゲルは見ていたと思う」と言う。
この言辞には説得力がある。
これをマニアのバイブルにしてしまうにはあまりに惜しい…
講談社メチエ402
「哲学書」(けして「哲学」ではない)は書道に似ていると思う。
書道の凄さは「読めないのに美しい」と感じるからである。これはキュービズムよりもアブストラクトよりも凄いことかもしれない。なぜなら「文字」は具体的、具象的なコミュニケーションツールだからだ。
なぜ「哲学書」(特にカント、ヘーゲル)もそうなのか?
読むと読める、逆に読み出したら止まらない、しかし理解不能。
竹田青嗣はその解法としてこう言った。
「翻訳がわるい」
今年の初めに彼は、ちゃんとした訳でヘーゲルの「精神現象学」を年内に出す、と宣言していた。それが12月10日に出た。(西研との共著)
さっそく買って貪るように読んだ。今まで2度挫折している。少なくとも書道的な美しさは増している。3度目の挫折の予感はある。
しかし、竹田青嗣の巻頭言と西研の巻末言は出色である。
竹田はヘーゲルに持っていた「負の評価」が解読と共に逆転したと言い「近代実証主義の素朴客観主義や、マルクス主義の決定論や、分析哲学およびポスト・モダニズム思想の方法的相対主義の限界に対する、最も本質的な批判となっている」と驚いている。
西はヘーゲルが「自由を基盤とした社会を構想した」とし、「ここ(精神現象学)には、近代の自由の行き着く先に、広義・狭義の表現の営みが豊かに展開される社会が生まれるというヴィジョンが読み取れる」と言う。
そして、「日本の社会を生きる私たちは「不干渉の自由」を得てきた。しかしそこにとどまらず、さまざまな仕方で互いに関わり合い共振しあうような、そういう生の次元をつくりだすこと。そういうあり方のなかに真の自由をヘーゲルは見ていたと思う」と言う。
この言辞には説得力がある。
これをマニアのバイブルにしてしまうにはあまりに惜しい…
講談社メチエ402
