伊勢紀行…松浦武四郎記念館を訪ねて2 過去ログ転載 | leraのブログ

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伊勢紀行…松浦武四郎記念館を訪ねて2



松浦武四郎記念館

 水田に囲まれた所にポツンと建っていたのが、目的の記念館だった。駐車場に車が2、3台止っていたが、バス停などなく交通機関は全くないようだった。外観の写真など撮ったが、開館記念のポスターなどにはやたらと「北海道の名付け親」とうたわれており、正直言って「危ないな・・・」と思った。武四郎のキャッチフレーズとしては最も一般的なのであろうが、危うさも同時に感じてしまうのだ。

 中に入ると、入り口の受付の所に女性が居て、出てきた。博物館のような券売の構造になっていないのは、地区のコミュニティーセンターになっているためだ。その受付で入場券(大人300円)を買うのだが、ひとつは記念にと思い「2枚下さい」と言うと、その女性は2枚とも半券を切ってしまった。

 半券を切らないものをもう一枚貰うのも気が引けたので、そのまま受け取った。その受付に芳名帳がありめくってみると、ほとんどが近所の人だったし、15名ほどしかなかった。その芳名帳がいつからかのものか分からないが、7月の3日にオープンした時のままだったら少なすぎる気がした。私もしっかり記名してきた。

 入ってすぐのところにビデオシアターがあり、武四郎を紹介するビデオが放映されていた。そのビデオは武四郎のいくつかの側面について分かりやすい紹介をしていた。その側面とは「旅行家・探検家」「作家」「出版者」「博物学者」の4つであった。出版者としての紹介の所では、例の「すごろく」が出てきたし、博物学者の所では彼の収集品の紹介もあった。ただ、篆刻家としての紹介が少なく物足りなく思ったものの、作家の所ではアイヌに対する人道的思想が前面に出てきていて、懸念していた「国士」「北方領土の証人」という側面は全く無かった。

 偶然にその期間が『開館記念特別展「松浦武四郎の絵画と書」』だったからだと思うのだが、武四郎が所蔵していた、アイヌの「玉飾り」や「蝦夷玉」「トゥキパスイ」(注81)が展示してあった。

 次はパネルによる出自の紹介があり、「武四郎の見たもの」という30分近いビデオが上映されていた。このビデオは最初の物をもう少し詳しくしたもので、ドラマ仕立になっているせいか飽きさせない。一般の人が武四郎を知るには非常に優れたものかも知れないと思った。その中でも強調されていたのは、ヒューマニストとしての武四郎であり、アイヌの惨状だった。

 取材もよくされており、支笏の「武四郎坂」(武四郎が開削した新道)や武四郎が一泊野宿をしたラウスの洞窟(現在では武四郎の歌碑が建っている)や何回か登攀した大台ケ原の原始林など見る事ができた。

 次の展示は武四郎の手になるもので、書簡や屏風絵や掛け軸や扇面や肉筆画や直筆の地図などで、改めて武四郎の多才ぶりを目のあたりにする事ができる。これらは生家にあったものを移したものである。

 実は展示はここで終わりなのだ。ビデオの時間を考えなければ20分ほどで全てを見る事ができる規模である。

 パネルなどの表現に気になるものはほとんどなかったが、ひとつアイヌの呼称について触れている所があり、「現在は民族の呼び名としても用いられている・・・」となっていて少々気にはなったが、本当に現在ではそうなのかもしれない。逆に武四郎のヒューマニストの面を強調しすぎるきらいもあり、北海道の地名は武四郎がアイヌの呼び方を尊重し愛情を込めてつけた、となっていた。武四郎は北海道の地名でのアイヌの人達の名付けにおいてこう言っている。

「夷言多くは其形勢によりて号ることなれば、其字にて大いに風土を知ることも有べし」 (アイヌの言葉による地名は、その地形などによってつけられる事が多く、それによって風土を知ることができる)

 また、「何れ此処の名は皆片仮名書きよろしかるべし。然るに後世漢字をもて当てしは却而訛転るの業ともなりてよろしからず。」 (地名はすべてカタカナ書きが相応しい。漢字をあてはめると後にかえって訛化する場合があり良くない)

 しかし、その武四郎の考えは後に変転してしまい、漢字を当て嵌める事に努力する事になるのである。

  花崎こうへいは著書『静かなる大地』の中でこう言っている。

 「北海道の地名の不幸は、まさにアイヌモシリ(アイヌの土地、つまり北海道)への和人の侵略のくつがえすことのできない証拠に他ならない。」

 そのとおりであると私も思う。武四郎の功罪を極めて冷静に判断する事が彼の偉大な業績の確認になると思う。無闇な賛美は実像を霞ませてしまう。

 名残惜しくもう一度全部を見て回り、書かれてある活字全てを読んだ。残念ながら未知のものは無かったが、武四郎の業績を一般の人に紹介するには満足できるものであった。もっと「近世蝦夷人物誌」の紹介やビデオ、旅に用いた装束や道具、アイヌの民族としての紹介や生活・習俗の紹介などがあってもいいと思った。

 再度ロビーに出ると、斜里などの町から送られた武四郎の歌碑の前で写した写真などが展示されていた。北海道のいくつかの都市と交流しているらしく、観光案内なども置かれてあった。また、地元の人が作ったのか武四郎の歌まであった。しかし、アイヌの存在がほとんど意識できなかった。アイヌの人の間で伝わっている武四郎の姿や、武四郎が人口調査した時に記録に残った人達の子孫の紹介があっても良かったのではないか・・・(注83)

 しかし、その問題はアイヌの人達の武四郎の評価の問題になるのであろう。アイヌの人達による武四郎像というものはあまり伝わってこない。逆に「国士」的な面から批判的なウタリも多いのではないだろうか?

 ロビーで購買関係を探したが何も無かった。密かに「武四郎旅程図」とか「復刻蝦夷漫画」とか「現代版蝦夷土産道中すごろく」などが売られていないか?と期待していたのだが、その期待は破れた。「武四郎饅頭」とかでもよかったのだが、何も売られて無かった。少なくとも記念館編集の資料くらいあってもいいと思ったのだが・・・

 先ほど切符の半券を切ってくれた女性にパンフレットを所望すると、怪訝な顔をされ「何部か?」と問われ、10部ほどもらった。自由に取れるようになっていないのだ。それに、あきらかに警戒されている。「武四郎おたく」「武四郎フーリガン」とでも思われたのかもしれない。

 そのパンフレットの地図に記念館の場所と併せて武四郎の生家の位置が載っていた。私はもともと生家には何としても行こうと思っていたので、それは幸いであった。

 記念館を出て、水田に囲まれた道を歩き、最初の十字路を左に折れると、曲がりくねった旧道に入る。そこは旧伊勢街道であると言う。その道をしばらく歩いたが、それらしいものは見当たらない。生家は写真で知っていたのだが、ひっそりと家が並んでいるだけで人影さえない。炎天下のせいもあるのだろうが、店も無く人に尋くこともできない。

 それでもようやくという所で屋根の低い旧宅にでっくわした。それは書物の写真で何度も見た事のある生家であった。





 「松浦武四郎誕生地附遺品著書」という1962年に立てられた石碑が建っていた。武四郎は実際には若い時から旅に出たので、その生家で生活した時間は短い。東京神田での生活が最も長く、例の「原日誌」も東京本家に残されていた。


注81)日本語で「酒箸」と言われる祭祀に用いる。見事な彫刻がされている。


83)貝澤正氏は遺著「アイヌ我が人生」の中でご自分の先祖の出てくる「記録」について述べられている。

帰 路



つげ義春 峠の犬



 生家に来たものの、別に何もする事がない。武四郎が若い時に歩いただろう道を行ったり、来たりしてみただけだ。その中で小野江神社にさ迷い入ったが、当然武四郎との関係は不明である。そこで少し腰を下ろして休んだ。ふと、鳥居と逆の方を見上げると砲弾型の忠魂碑があって、興冷めしてしまった。

 帰るには取りあえず記念館に戻らねばならない。なぜならそこ以外に人はいないのだ。誰かに「帰り方」を聞かなければならない。バッタやトンボが前方を行き交う道を記念館の方へ戻った。

 人に聞くまでもなく、公衆電話の所に地元のタクシーの呼びだし電話番号があり、そこへ電話をした。しばらくすると私より年上だろう女性が運転するタクシーがやって来て、伊勢中川まで、と行き先を告げると彼女の方から話しかけてきた。

 彼女は私がここに来るためだけの目的で東京から来た、というと非常に驚いていた。また、記念館がオープンする前、北海道のある所から来た人のために生家に案内し、突然の来訪であったにもかかわらず生家の人が武四郎の遺品を見せてくれたエピソードを教えてくれた。確か、花崎こうへいも突然生家を訪れ、家人に親切にされた事を本の中で書いていた。

武四郎の墓石


 最後に彼女に武四郎の墓所は東京の文京区にあるんですよ、と説明すると仰天していた。

 なんとなく離れ難く、中川の駅にたたずんでいたのだが、何もなく切符を買うしかなかった。行き先を別に求めるため、何かを食う事を思いついた。もとより、朝から何も食べていなかったのだ。松坂で牛肉を食べるか、伊勢志摩で伊勢海老を食べるか、桑名で焼蛤を食べるか、と思案し最も経済的という理由で桑名で焼蛤を食べることに決めた。もともと蛤が好きだったこともあるし、よく落語や時代劇で耳にする「そいつぁ くわなの やきはまぐり 」を食べてみたいという思いは子供の時からあったからだ。

 巻末に詳細を述べるが、同時にある「菓子」を探していた。これは松浦武四郎にまつわる菓子である。そこで、駅の売店などを隅からすみまで見たのだが、「赤福」だらけなのだ。生地の方には商店らしきものはないし、だいたい人がいない。

 「どこで降りるか分からない」という想定で最小額の切符を買い名古屋行きの近鉄電車に乗り込んだ。

桑 名 へ

 近鉄の桑名で下車し、切符の精算を済ませ駅前に出た。予想どおり桑名は都会で、名物の食い物を探すのに困難さを予想させた。駅ビルに入り、地下に焼蛤もやっている割烹料理屋を発見したが、日曜であり休みであった。

 外に出ると焼き蛤の店より貝のつくだ煮の店がいくつかあった。その店は東京の銀座にもある店で、こちらが本店だった。外にショーウィンドがあり、「貝覆い」(注 101)のミニチュア・セットが飾られていた。貝桶が二組あり錦絵が描かれた小ぶりの蛤の殻が何個か入っている。「これは珍しい」と思い、店の中に入り尋ねると、その貝の中につくだ煮が入っていて、実際の蛤は数えるくらいしか入っていないとのこと。貝のつくだ煮の店で見た一瞬の夢であった。

 土地不案内であるので、どことはなしに歩いていると、奇妙な看板に遭遇した。「やき蛤うな」となっているのだ。少なくとも焼き蛤をやっているだろう事は想像がつく。しかし、「やき蛤うな」とはなんだろう。さらに近づくと、「はまぐり食道」と書かれていて、探求心と共にその店に入った。





 店に入ってすぐ探求心は満足された。「うな」とは「うなぎ」の事だったのだ。看板は一文字ずつのプレート式になっているのだが、「ぎ」が落ちてしまいそのままになっている、との事。「やき蛤うな」の実態は実にあっけなく、実につまらない結果となって判明した。

 小上がりが3卓、テーブルが8卓ほどある広い店であったが、昼下がりの半端な時間のためか、他に客はいなかった。私はテーブルに付き、焼き蛤とビールを注文した。焼き蛤は3個で600円だったが、東京の焼き蛤と基本的に異なっていた。

 本場桑名の焼き蛤は東京のようにダシを使ったり、三ツ葉をちらしたりせず、そのまま焼いたものなのだ。その熱いものを直接手に取り、殻をはずしそのはずした殻ですくって食べる。つまり箸は用いないのである。本当の蛤の味、といった感じでなかなか満足できるものであった。

 ちょうど窓際に座ったので、行き交う人の姿も見え、今晩には東京に帰るだろう自分を思った。焼き蛤とビールを追加する時に、「ビールは小ビンにしますか?」と聞かれた。その意図がわからずにもう一度同じものを注文した。その意図は現在に至っても不明であるのだが、結局もう一回追加し旅の最後はいつもこうだった、と思い出した。

旅 の 終 わ り

 今までにしてきた旅の全てがそうだったが、帰りは実になんとも言えない気持ちになるのだ。だから悪戯に酒を飲んだりした。旅がいつしか終わる事が分かっていながら、それを納得させるのに時間がかかるのである。旅が終わり、日常に還ったとき、自分がどちらに棲息すべき人間かどうかに確たる判断ができないためなのだ。というより「日常」が何たるか不可解なのだ。だから旅に生きるという生活を羨望したのかもしれない。芭蕉も林蔵も真澄も武四郎も放哉も山頭火も旅を日常としていた。旅が存在の証であり、旅の中だけで生きていけたのだ。

 それらの生活が意味する所は、人間の存在の不確かさに他ならない。その存在の不確かさが定住の生活に猜疑心を抱かせるのである。その猜疑心は外界への視線となっていき、何も信用しない新たな出発点に立ち旅に出ることを渇望する自分を見るのである。すべてが架空のように、あたかも架空の芝居のように見えてしまい、一生が「役探し」で終わってしまう人生を予感させるのだ・・・

 桑名の駅ビルでアルコール類を買い、名古屋に出て新幹線に乗車した。大阪に行ったこと、しかし猪飼野に行けなかった事。武四郎の記念館に行き、生家も見られた事。名物の焼き蛤が食べられた事。それらがひとかたまりの思いとなって、頭の中を駆け巡った。

 旅をする事で旅に生きた自分がいて、帰りつけば家に住む自分がいる。芭蕉は旅に病み何を見たのだろうか?武四郎は何故突然旅を止めたのだろうか?そんな思いは「死」についての感慨になっていった。

 放哉は旅の終わりが「死」であったし、あるいは死が旅を終わりにした。または、死しても旅は続いているのかもしれない・・・

 松浦武四郎はあれほどの北海道への旅をしながら、突然旅の生活を止めてしまった。その理由は永遠の「謎」である。そして彼は日本全国の友人達から木片を送ってもらい「草の舎」(くさのや)という1畳敷の書斎を作りそこを棲家としたのであった。絵師河鍋暁斎に自分が死んだ時の涅槃図を描いてもらい、それをその書斎に掛けていた。その狭い書斎から雄大な北海道とそこで暮らすアイヌの人達に思いを駆せていたのかもしれない。また、自分が死んだらその書斎を壊し、その木片で遺体を焼き往来に埋めてくれ、と遺言してあった。

 知里真志保(注111)も晩年病気で倒れた時、遺言を残したがそこには「墓は不用、もし遺志に背いて作ったら化けて出る」と書かれてあった。

 武四郎の遺言も真志保の遺言も守られなかったようである。「草の舎」は徳川家の南葵文庫に寄贈されたため、震災も戦災も免れ現在にいたっている。また、墓所は東京の染井墓地にある。戒名は「教光院釈遍照北海居士」官位や俗名は刻まれていない。墓地管理事務所に案内図がある。

 彼らのそういう生活と意志に触れた時、「歴史」というものを感得する存在という考えにたどりつく。雄大な「歴史」という流れのなかでは、「人」という存在ははかなく空しいものなのだ。故に小さな庵を編み死後を常に念頭に置き、死んだら「世の塵」になりたいという発想をしたのだ。権力の趨勢を「歴史」と捉え、民衆の生き方にそれを見いださない思考は、人にこだわり、人の存在にこだわり、権力の象徴としての「人」を求める。あげくのはてには「人」を継代させようとする。

 何かを誇示するために大きな家に住み、死んだら大きな墓石を建てる事を切望し、しかもその墓石に官位や叙勲や軍での階級を刻ませる。はなはだ滑稽な場合は鳥居さえ建てさせる。

 私はそのような「史観」しか持ち得ぬ輩を批判しようとは思わない。彼らも貧困な思想しか持つ事を許されなかった時代の被害者だと思っている。

滑 稽 後 日 談

 今年の春に私は事務所にて不思議な物を見た。それは女性が使用していた縫栽箱で、本来縫栽箱ではないものをそれに使っていたのだが、厚い和綴じ本の装丁で表に「十勝日誌」と書かれてあった。私がびっくりしたのは他でもない、「十勝日誌」は武四郎の公刊本の書名であったからだ。

 思わずその女性からその箱を取り上げ、この箱を使う経緯について尋ねたが、昔からあるという事で詳細が分からなかった。「十勝日誌」と書かれている表紙をめくると、武四郎の十勝日誌の最初のページが薄紙に印刷されており、その下は箱になっていた。紛れもなく武四郎に関係のあるものであったが、中に何が入っていたのか?それは皆目見当がつかなかった。その女性が言うには「お菓子」でも入っていたのではとのことだが、確かに菓子が入るには丁度の箱なのだ。

 今度の伊勢への旅で、行く先々で売店のお菓子を注視していたのは、それが理由である。生地の近くでそういうお菓子が売られているのでは、と思ったのである。結局それに対する「謎」は全く解決されずに帰京する訳だが、その時に桑名で「ういろう」の土産を買った。

 家に帰りつき家人に「ういろう」を渡す時、家人が「赤福」が大好物だったのを突然思い出した。




 「赤福」だらけだったので、購買意欲をそがれたのだがそれについて家人に激しく叱責された。結局買ってきた3本の「ういろう」は独りで食べるはめになったのだが、そのときに失敗をごまかすべく、家人に例の「十勝日誌」の事を聞いてみたのだ。家人は北海道の生まれであるが、武四郎に関しては何も知らないし、北海道の歴史に関しても何も知らないため、今まで聞いた事はなかったのだ。

 すると家人は、私の説明が全部終わらぬ内にそれを知っているという。私はここでもまた驚くのであるが、家人は「有名なお菓子」として知っていた訳である。家人から言わせると、北海道の人なら多くの人が知っている有名なお菓子だと言う。もちろん家人はその「十勝日誌」という名付けが松浦武四郎に関わりがあるとは全く知らなかったのである。

 これは盲点であった。「食い物」の事なら家人に聞くのが本筋なのに、それを怠っていた。まあ、弁解するなら「十勝日誌」が食い物であるという確信が無かったのであるが・・・私はへんな感謝を家人にするはめになってしまったのだ・・・

 その菓子がどのように武四郎にちなんだ物かを尋ねると、その「十勝日誌」は複数の菓子が入ってひとつのセットになっているという。その中に鍋の形をしたものや、巻物のかたちをしたものがある、と言う。鍋!私はすぐにも色めき立った。鍋と言えば武四郎は北海道探検に用いた3個の鍋を滋賀県大津の三井寺山中に埋め鍋塚としたのであった。現在でも石碑が立ち碑文が刻まれている。今回の大阪、伊勢行きでは時間があれば寄ろうと思ってもいたのだ。また、巻物に擬したものは武四郎自筆の地図を表現したものであろう。

 私はかつて北海道において武四郎の無名さに驚愕した経験を持つが、この菓子は違う。かなり武四郎の業績に精通した人が企画したに違いなかった。

 私は関係各所に電話をし、それが帯広の六花亭で作られている事を知る。関東近郊で売っている所は無く、クール宅急便で送ってもらう事にした。そのとき配送の担当の人に武四郎とその菓子について尋ねたが、中にパンフレットが入っているのでそれを読んでくれという事だった。正直言って待ちきれなかった。なぜなら武四郎のどの文献にもその菓子の存在は触れられていないのだ。「学会初の報告!」なんていう風に幻想は広がった。

 それは9月1日に届けられた。
 包紙を取るのももどかしく開封した。
 中から出てきたのは紛れもなく会社で見て、ずっとその存在の何たるかを探ってきた「十勝日誌」そのものだった。感動の中で和綴本の表紙にあたる部分を開いた。すると武四郎の「十勝日誌」の最初のページが顔をだした。それをめくると色々なお菓子が入っていた。確かに鍋の形をした最中があり、巻物を擬した筒状の羊羮があった。また、小型のパンフレットが入っていて、それら菓子のひとつひとつの説明がされてある。

 ところが、である。パンフレットを見ていくと、私の想像が幻想でしかなかった事を知るのである。鍋の形をした「ひとつ鍋」という最中は、武四郎とは何の関係も無かったのである。帯広を開拓した依田勉三という人が開拓の辛さを「おちぶれた極度が豚とひとつ鍋」と嘆いた幹部を叱咤するように「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と詠み、そこから「ひとつ鍋」という最中の名前をとった、という事だった。

 また、巻物状のものは実は白樺の木に見たてた筒状の羊羮であり、これも武四郎となんら関係がなかった。パンフレットの記述でも武四郎に触れたところはほんの僅かしかなかった。

後日談の後日談

 未だ「十勝日誌」が届く前に千歳市に知人が居る家人にこう言った。

「十勝に『十勝日誌』というお菓子があるのだから、千歳に『夕張日誌』というお菓子があってもいいよね。なんせ武四郎が最初に千歳を紹介したのが「夕張日誌」なんだから・・・」

 すると家人は、またも全部聞かないうちにこう言った。

 「あるよ。千歳のモリモトというお菓子屋さんで作っている。形はどんなんだったか覚えてないけど・・・」

 再び私は驚いた。すでに「十勝日誌」は帯広の六花亭に注文してあったので、「夕張日誌」も注文しようと、関係各所に電話をしまくった。メーカーが違っているのでは、販売店が違うのでは、と電話は激しく複雑に交錯したが、地元の人の結論で一件落着した。 「そんなお菓子は存在しない・・・」

 持つべきものは「家人」である、かもしれない・・・

あ と が き

 松浦武四郎に関して拙い文章を著し色々な人に読んでもらっていたので、記念館に行ったらその報告をせねば、と思って書いたのがこれである。記念館の存在も場所も、私の文章を読んでくれた人から教えてもらったのだから尚更である。

 記念館での収穫があまりなかったせいもあり、直接武四郎と無関係な記述が増えてしまった。しかし、思わぬ収穫もあった。自分で計画性も無く書いていて気づいたのだが、武四郎に惹かれたひとつに「旅」があったかもしれない、という事だ。

 人は「旅」に色々なものを見いだす。私も「旅」を続けていたいと思う。

 この記念館は武四郎の業績を人々の記憶に留めるものとなるであろう。惜しむらくはその施設が北海道にないことである。(注132)北海道の現場ではアイヌの惨状を告発した武四郎の存在は微妙なものなのかもしれない。「アイヌ新法」(注133) の国家レベルでの制定作業が遅々として進まず、日本政府が未だに先住民として認知していない現実を見る時、北海道でこそ武四郎の業績を偲べる施設が必要であると考える。あるいは研究される必要があると思う。

 前著「松浦武四郎に関する簡単なパンフレット」に漏れていた参考図書を紹介する。

○北の国の誇り高き人びと 松浦武四郎とアイヌを読む 横山孝雄著 かのう書房
○奇っ怪紳士録 荒俣 宏著 平凡社ライフ゛ラリーあ21
○幕末反骨伝 松浦武四郎物語 本間寛治著 七賢出版

注)101 いわゆる「貝合わせ」。蛤の殻はけして他のものと合わないため、「貝覆い」が婚礼道具に使われ、かなり豪華な物まで見られるようになった。

注)111知里幸恵の弟で北海道大学教授。アイヌ語学の先達。もちろん「アイヌ民族」幸恵は「アイヌ神謡集」や、それの優れた序文で有名。


132)あるのかも知れないが知らない。あったら教えてほしい。

133)明治32年制定の「北海道旧土人保護法」という差別的な法律の撤廃を目的とし、人権・先住民としての地位を強調した新法。