むかし、をとこありけり・・・ おっと、「伊勢物語」じゃなく、伊勢紀行でした・・・
猫町紀行発 端
私が7年ほど関わっている学会に関西支部ができる事になり、8月13日が発足会と定められた。東京から何人か派遣する事になり、私は立候補した。私が手を挙げたのは7月にオープンになった三重県の「松浦武四郎記念館」へ行くいい契機(口実)になると思ったからである。
武四郎の記念館が三重県の三雲町、つまり武四郎の生地にできる事を知ったのは、北海道の友人が新聞の切り抜きを送ってくれたからだ。その切り抜きは簡単な記事で、詳しい事が分からなかったので、先ず三重県津市の市役所に電話をしたが要領を得なかった。次に一志町の役場に電話をかけたが、そこで「それは三雲町ではないですか?」と言われ三雲町の役場の電話番号を教えてもらい、ようやくその存在と場所が確認できた訳であった。
支部の発足会は大阪の四天王寺で開かれるので、ある別の計画も立てていた。
それは鶴橋の通称「猪飼野」へ寄ってみようと思ったのだ。そこが、在日朝鮮・韓国の人々が多く居住する所だからだ。 猪飼野には10万以上の(不確かな記憶で書いているため実際には違っているかも知れない)在日の人々がいる。本来だったら「市」をつくれる位の人口だが、彼らには選挙権がない。政治的な発言力を与えられず、敗戦国ではないのに分断されたなどの苛酷な歴史を体験してきた人達の「街」を見てみたいと思ったのだ。
また民俗学的観点から朝鮮半島由来の遊戯に関連した品物があるのではないか?という期待もあった。
私は大阪という街に漠然とした憧れを持っていた。
その理由は「本音の街」という思いからである。大阪は同和教育のとても進んでいる地域であり、民間の障がい者支援組織の充実した地域である。その理由を私は私なりに想像していた。 つまり、大阪は古くから商人の「街」であるので、権威主義が希薄で、階級を否定する心情が厚いのではないか、と想像したのだ。金銭にはっきりとしたケジメをつける、破天荒の芸人や達人が輩出する(注1)、などの事実は権威主義を否定した、平等と自由の精神から出ているのではと思ったのだ。 私は関東の人間で、小さい時から「男は細かい事にこだわるな」「金銭の事をとやかく言うな」と言われていた。これは封建制度の維持のための精神訓話ではないか、と今では思っている。関東は武士の国であり、封建的な所であったため、「細かい事にこだわらずお上の言う事だけ聞け」「金銭の事を言わず忠義をつくせ」と洗脳されたのではないだろうか?権威主義は明治政府の皇民化教育でますます激しくなり、東京における階級意識の薄弱さ、しいては人権感覚の希薄さには現在でも驚かされる事がある。 私は同和教育の進んだ理由や、障がい者支援組織の進んでいる理由をそこに求め、憧れの気持ちを持っていたのだ。だから猪飼野には是非行ってみたかったのだ。私の憧れと想像は甘い幻想である、とは思うものの、やはり自分の足で歩いて見たかった。
ところが、学会から当初無かった話しが出てきた。交通費を半分出してくれるというのである。
正直言って私は困ってしまった。なぜなら、それでは「遊び」ではなくなってしまうからだ・・・大阪の支部の発足会に少し顔を出し、猪飼野に行き、翌日伊勢に行こうと思っていたからだ。発足会の終了は午後8時半、片付けなどすると9時を回るだろう、それでは猪飼野に行く事はできない。 武四郎記念館に行く事は北海道や東京の先生や友人達にも話してあるので行かない訳にはいかない。結局猪飼野行きを断念する事にした。
私が「朝鮮半島」と「遊戯」に関して前書きとしているのは、テーマである松浦武四郎と関連があるからなのだ。
武四郎は1842年25歳の時に長崎に長く居留していたが、その時に朝鮮半島に渡りたいという思いが捨て切れず、壱岐、対馬まで行っているのである。もちろんその思いは遂げられないが、その思いが「北方」に向けられるのは時間の問題だったのだ。 また、彼が北海道に行くようになってから、北海道の紹介を兼ねた「新板蝦夷土産道中寿五六」(しんばんえぞみやげどうちゅうすごろく:注2)という「すごろく」を出していて、そこで北海道の土地や産物やアイヌのことなど紹介しているのだ。
猪飼野という土地は武四郎の記念館を訪ねる前段階としては十分に興味をひく所であったわけだ。 旅に出る前に少し事件があった。8月の8日に10年ほどかけて探していた書籍が偶然手に入ったのだ。それはつげ義春の『猫町紀行』である。3万円だったが、4年前にタッチの差で買い逃した時と同じ価格だったので、全く躊躇しなかった。何かいい「予感」のようなものを感じた。予感は、何かが控えている時に恣意的に感じるものだと思うが、翌日の9日が「袴田事件」の再審決定の日だったのだ。再審開始を疑わなかった。日本テレビのドキュメントでも「虚偽自白」「証拠捏造」が取り上げられたし、平日夜の「今日の出来事」でも何度か報道されたからだ。再審の判断に世論は原則として影響しないだろうが、時間と共に明らかになる事は少なくないのだ。
その日の朝、家を出るとき家人にこう言った。 「再審の決定は朝10時頃だから、そのあたりのニュース速報で出たら電話をしてくれ。」
自分でも11時に銀行のロビーにあるテレビの前にいた。11時のニュースで単独ニュースとして報じられた結果は「棄却」だった。信じられなかなかった、という思いと同時に激しいショックを感じた。その場で家人に電話を入れると、家人はまだ知らなかった。私は一言「だめだったよ」と言った。家人も大変驚きしばらくは会話にならなかった。拘禁されて28年、再審請求して13年の袴田巌を思うとどの言葉も空しく感じた。(注3) 事務所に帰りもう一度家人と電話で話した。今後の進展について、袴田の健康状態について、等々・・・今度は長い話しになったが、落ち込んでしまった。
その日の晩にプールへ行くことになっていたが、そんな気分になれずキャンセルさせてもらった。予感などアテにならないものだ・・・
往きの新幹線の中で読むために、花崎こうへい著『静かなる大地』の文庫版を買い、現場で(記念館)メモをとりやすいようにライティング・ボードを買い、私が著した武四郎の「パンフレット」をコピーし、準備は整った。
旅
朝7時の新幹線に東京駅から乗った。 早速「静かなる大地」を再読しだしたが、思いは「旅」から離れなかった。
一時期私は非常に旅をした。それも時間をかけた旅を随分としたのだ。急行列車や路線バス、そして徒歩の旅だった。主に東北が多かったが、それはつげ義春の影響だったと思う。つげは作品『リアリズムの宿』で、「八森海岸をほっつき歩き」「旅程と旅費の寂びしい計算」をしているが、私もその旅の後を2回たどった事があった。
東京で青森行きの周遊券を買い夜行の「津軽」に乗る。夜行の急行は奥羽本線回りが「津軽」で、東北本線回りが「八甲田」であった。「津軽」に乗ると13時間以上の旅になる。客車の中に吹き込んでくる雪を気にしながら、マタギやサンカの本を読んだ。誰も客のいない客車の中で本を読んだり、日記を付けたりしながら、漠然と「こんな生活が一生続くんだろうな・・・」と思っていた。眠気でウトウトしていると、明け方の客車に人がポツポツと乗り込んでくる。行商の人や、結婚式に出る礼服の人などの会話で目が覚める。 私は「お国言葉」を聞くのも好きだった。しばらく東北への旅をしていると、山形の言葉と秋田の言葉と津軽の言葉と南部の言葉の違いが分かるようになり、急行「津軽」の中での言葉が秋田の言葉から津軽の言葉に変わる地点を楽しんだりした。津軽の言葉に関しては随分自分でも話したいと思い練習したが、地元の人に笑われるばかりであった。 つげも『もっきり屋の少女』など多くの作品で「お国言葉」を取り上げている。
私が五能線沿線の「艫作」(へなし)に行ったのは、「八森海岸をほっつき歩きたい」という気持ちの他に「黄金崎温泉」という温泉があり、しかも全く無名だったからだ。駅には駅員もおらず、駅の待合い室から泊まる事になっていた唯一の民宿に電話をすると「線路の上を歩いて、最初の踏切を左に曲がれ」と指示され、嬉しくなったものだ。その民宿は実は銭湯で2階の部屋に泊まれるのだが、それは友人の家に遊びに来た感じで、宿泊施設というものではなかった。もともと東能代のラーメン屋の壁に貼ってある地図で温泉を知り、電話帳を借りて電話したのだから当然といえば当然だが・・・ 夕食の前に散歩に海に出てみた。険しい岩礁が続く海岸線で風が強く寒さは身を凍らせた。たまたま拾ったチョコレートの缶に腕時計を入れ、岩の隙間に差し入れ砂利をかぶせて見えないようにした。 夜になり銭湯が閉まると、とたんに当たりが静かになった。窓を開けると漆黒の暗闇だった。遠くに荒々しい波の音だけが響いた。私は動き続けているだろう「埋めてきた腕時計」を想像し少し笑った。その時計はある女性に貰ったもので、しかも彼女が身に付けていたものだったのだ・・・
泊まる所は民宿か商人宿で、商人宿では随分お世話になった。三戸田子町の「山川旅館」という商人宿では、昼残っている私のために「煮込みうどん」を作ってくれて、家族の人たちと一緒に炬燵に入りながら食べたが、今でも実にいい思い出だ。泊まり合わせた人達は元気に挨拶を交わし、最初は慣れなかったものの、いつしか誰にでも挨拶できるようになった。 宿泊客は行商の人か、工事現場の人で、色々な話しをして一緒に食事をしたり、楽しかった。
つげ義春が「リアリズムの宿」で描いた鯵が沢にも行った。つげは「床屋の多い漁師町」と主人公に言わせているが、私も床屋を何軒も見た。つげが実際に鯵が沢に行ったのは1969年の事であり、私が鯵が沢に行ったのが1980年の事だった。ところが、武四郎も鯵が沢に行っているのである。彼は北海道へ渡ろうとして1844年鯵が沢に行く。その時は結局思いは遂げられない。最初の北海道行きは翌年まで待たなければならない・・・ 武四郎が行き、その後120年ほどしてつげ義春が行き、また10年ほど後に私が足を踏み入れているのである。
注 1)近松門左衛門、初代坂田藤十郎、初代桂春団治、坂田三吉等。
2)吉田武三著の「松浦武四郎紀行集」で見ることができる。
3)2014年に再審開始決定が出された
放浪癖
私の旅好きは「放浪癖」から始まったと思っている。
小さいころ「十五少年漂流記」や「猛獣境の少年」といった冒険物に見せられたのが原因かも知れない。「次郎物語」の中で「計画をしない旅行」の許可を父にとる友人の話しや、「路傍の石」で吾一が独りで栃木から東京に向かう列車に乗る時など、作品の意図を無視して胸を高鳴らせた。また、「少年マガジン」に連載されていた「ヒッチのもへい」という漫画も好きだった。その漫画の主人公は日本国内をヒッチハイクをしていて、色々なできごとに遭遇するわけだが、金銭収支を毎回最後に表示していた。それは旅により収入が発生する場合があり、それは一生続けられる旅を暗示していたと思う。(残念ながら私にその経験はない) 小学校からチャンスを見つけては「冒険」まがいの事をした。家族で避暑に行ったとき、ひとりだけ離れた庭で野宿したり、伊豆の海にある洞窟に入ったりもした。急流の相模川に落ち死にそうになった事もあったし、夜、山で多くの野犬に囲まれ一睡もできなかった事もある。
さらに私の「旅への想い」を決定づけたのは、ルヘマン・ヘッセの「クヌルプ(漂泊の魂)」であったと思う。 少年が淡い恋心を抱く年上の女性という存在がよくあると思うが、私が小学校の時にもそんな女性がいて、それは父の友人のひとり娘で私よりひとまわり以上年上であった。彼女も「ひとりっ子」という所為もあったのかもしれないが、私をよく可愛いがってくれて、博物館や美術館に連れていってくれた。私はそこでツタンカーメンに触れ歴史の面白さを知ったし、キュービズムにも触れる事ができた。また、ケーキやクッキー作りを手伝ったり、折り紙もずいぶん教えてもらった。鹿の子模様の和紙の折り紙など美しく感じたものだった。彼女が集めていた歌舞伎の「すじがき」や映画のパンフレットを見せてもらうのも楽しみのひとつだった。 私が小学校6年の時、彼女が結婚する事になり、持ち物の整理をし私に何冊かの文庫本をくれた。その中の一冊がヘッセのクヌルプだったのだ。
その本は偶然にも刷年が私の生まれた年で月も私が生まれた月と一箇月と違わない本だった。そして、私が読んだ最初のヘッセの作品であったのだが、彼女の体臭を感じた事もあったと思うが、まるで魅入られたように読み耽った。それは耽美な私の知らない別世界であり、大人の世界でもあり、「旅」の世界だった。
クヌルプは病身で旧友を訪ねる旅に出て、未知の女性達に会う。
それは旧友の新妻だったり、その旧友宅の隣家で奉公している若い女性であったりする。旧友の新妻には優しい看病を受け、また隣家の女性とはダンスをしにいくのだ。しかもクヌルプは旅のお金に困っていて、それを察したダンスをした女性の金銭的な援助を断ったりするのだ。 私の旅の原形はクヌルプによって形成されたと思う。楽天的な楽しみが無く、他者に同情を受ける「徒歩旅行」で、しかも「終わり」を特定しない。私にとって終わりが準備されているものは旅ではなく日常のひと区切りであり、旅は刹那的で破滅的でなければならないという観念が形成されたのである。 私はいつしかそんな旅をしようと思った。そんな旅に生きようと思った。そしてクヌルプのように旅に死のうと思った。そして、自分の人生を「不遇な人生」にしようと思った・・・クヌルプも北国と海に強い方向性を持っていた。私にとってはドイツのブラウンシュヴァイクがあこがれの「地名」になった時期があった。そんな事があり私の眼も北に向かったのだ・・・私の意識は北に向かわざるをえなかったのだ・・・
私にとっての旅は時代に埋もれることであり、土地に慣れることであり、馬の骨になる事だったのだ。だから観光客のいない商人宿にあこがれた(実際には商人宿は紹介がないと利用できなかったが・・・)
その後日本の探検家に接するようになる。菅江真澄や間宮林蔵や最上徳内であり、松尾芭蕉もその内に入る。彼らが目指したのが北方であり、私をさらに北方に引きつけた。その後種田山頭火や尾崎放哉といった自由律の俳人に傾倒しますます「放浪」の思いを絶ち切る事ができなくなってしまう。そして、「民俗」という物に触れたのも大きな影響となった。宮本常一を耽読したり、三角寛の「サンカの社会」を図書館から借り、全部自筆で写した事もあった。それらは横山源之助や草間八十雄に繋がっていった。誰だって宮本常一の本を読むと旅に出たくなるであろう・・・
「民俗」に触れる原因はなんだったのか?今でははっきりしないが、小さい時、家族旅行や団体旅行でガイドの説明を聞くのがすきだった。洞窟に逃げた人が中で米を研ぎ、その研ぎ汁が川に流れて捕まってしまった歴史上の人物の話、杉を逆さに植えそこに落雷した「逆さ杉」、など夢中になって聞いた。おみやげは「民話の本」や「七不思議」の本をよく買った。その他にも白土三平の『カムイ伝』にも民俗的好奇心をかきたてられた。野鍛冶が「山ことば」を使うシーンなど、何度も読み返した。
漠然と「一生続く・・・」と思っていた旅の暮らしは、ある理由で突然終わってしまう。下北半島を3日かけて歩いて一周回ったのが最後の旅になってしまったのだ。(大畑まで普通列車で行き、その後歩いて下風呂温泉へ、翌日歩いて大間へ、翌日歩いて佐井村)その時も道の途中で出会ったお婆さんに家に寄れと言われ、干物をもらったり、大間では神社でやっていた祭りのダイナミックな太鼓の稽古を盗み見る事ができた。強風の大間崎(本州最北端)で、温かいものを飲もうと販売機など探すが無く、閉まっている一軒だけあった店屋を訪ねると、インスタントコーヒーをいれてくれた。 佐井村で泊まった民宿では客が私ひとりだったので、奥さんが食事の時にその家の略歴の説明をしてくれた。その時にアイヌとの交易があった時に残されたというアトゥシ(注4)や木札の百人一首(注5)も見せて貰った。その当時の冬の佐井村はそこから半島西岸を南下する道がなく、下北汽船で青森に帰るしかなかったのだが、すばらしく奇麗な夕焼けであったにもかかわらず、翌日の朝が風雪で下北汽船は欠航してしまった。 私は同じ道を帰る事を潔くしない気持ちがあって、なんとか方法を探したのだが、宿の人の勧めもありバスで同じ道を引き返す事にした。つげはそこから牛滝に足をのばしている。それは実に痛恨であった。今でも残念でならない・・・野辺地では大雪で列車も止った。
つげ義春は自由について次のように述べている・・・
貧しげな宿屋を見ると私は無闇に泊まりたくなる。そして、 佗びしい部屋でセンベイ蒲団に細々とくるまっていると、自分 がいかにも零落して世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える。世の中の関係からはずれるという事は、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息 苦しく、そんな自分から脱がれるため旅に出、訳も解からぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは 自分から解放されるには“自己否定”しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で自分を零落者に擬そうとしたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。自分を締めつけようとする自分を否定する以外に、自分からの解放の方法はないのだと思う。自由とは自分からの自由に他ならない。
『貧困旅行記 ボロ宿考』より
私の旅も自分が「どこかの馬の骨」になってしまいたかった旅であったと今では思う。また、一種の変身願望であったかもしれない。深沢七郎の旅はそこに住み着いてしまう旅であったし、つげの旅は「尋ね人広告」の出る旅であった・・・ 武四郎は16歳の時に江戸へ独り旅をする。その時は迎えの者が来てすぐ帰郷するが、帰路に中仙道を通り戸隠山、御嶽に登り「遊歴のこころざし止まず」になり、旅に憑かれる。翌年の1834年9月9日に父より一両貰い本格的な旅に出るが、その旅は10年の長きにわたり、その間に両親も他界してしまう。
菅江真澄、間宮林蔵、松尾芭蕉、彼らに触れた事が北方への思いを募らせ、その気持ちが北海道へと自分を導くのは当然のなりゆきであったろう。しかし、皮肉にも旅の暮らしを終えてから頻繁に北海道に行くようになったのだ。そこで出会ったのが松浦武四郎であり、アイヌの人々だったのだ。 私は物心ついた時にすでにアイヌの人々の存在を知っていた。何かで聞いたり読んだりしていたのだろう。しかし、初めてアイヌの人を見たのは小学校4年の奈良でだった。父の大阪出張に同行したが、その大きな目的は開通したばかりの「夢の超特急新幹線ひかり号」に乗る事だった。父の仕事がどんなものだったのか全く記憶はないが、その後に奈良のドリームランドへ連れていってくれたのだ。そこは今で言えばディズニーランドのような所だった。そこにいろいろな民族の生活を示す場所があり、そこでアイヌの人を見たのだった。その人は男の人で寒いのに胸が見えていた。彼はおみやげ用の木彫りを彫っていて、私は東京で留守番している姉にと木製のブローチを買い求めた。そこで、彼に姉の名前を聞かれ、答えるとあっという間に裏に姉の名前とその日の日付を彫ってくれた。私はそれにびっくりしたのか、その奈良ドリームランドの記憶はその一件に集約されているのだった。
注4)アイヌの人の伝統工芸による服。
5)取札が木札に墨染してあるもの。後に北海道では普遍的なものと知る。そこでは額装してあった。
不 安
松浦武四郎の記念館を訪ねるには一つの不安があった。それは過去の武四郎に対する評価にもよるものであったが・・・
彼は攘夷論者であり、北方警備の重要性を説き、それを調査するために北海道に渡った、という見方である。それは北方領土の所有権の証人という見方になり、アイヌに対する育撫政策の提案は北方警備を目的にしたものでしかない、という考えかたであり批判である。
よって武四郎の紹介文句として、「暗黒の北海道の探検者」「開拓の先駆者」 「北海道の名付け親」となるのである。
「暗黒の北海道」などありえない。
時間のある所に歴史はあり、人の居た所に「暗黒」などないのである。「暗黒」があるとしたら、そこで生活していた人々の歴史や文化や伝統を理解しない、あるいは否定しようとする人々が造りだすだけだ。開拓の先駆者というイメージはアイヌからの収奪を感じさせるし、「北海道の名付け親」は北方領土の所有権を主張する根拠になるようである。
記念館がそれらの側面を全面に押し出していたら、という不安があったのだ。行政が造った施設だからなおさらその不安は現実的なものになっていた。
確かに武四郎にはそういう側面があった。攘夷論者であったのも事実だ。
ところが新谷 行も花崎こうへいも指摘しているように、変わっていったのだ。思想性が変化したというより、旅の中で自分を見つめ自己を確立していった、と言った方があたっている。新谷行の表現を借りれば、
「歩くことによって自分を見つめていった・・・」という事だ。
私はその新谷行の言葉に自分の歴史をも投影してしまう。私の旅の大半が徒歩だったが、1日8時間以上も山でもない所をただ歩いて何が楽しいのか?とよく人に尋ねられた。歩く事によって私も思考を深めていった。持っていったスケッチブックは最後には必ず記述ばかりになってしまったものだ。
また、武四郎の著作の問題もある。
武四郎には出版者としての側面があるが、幕府あるいは明治政府から出版不許可にならないように、あるいは松前藩から命を狙われないように腐心していた時期があった。よって世に出ている通称北海道物には、それらへの迎合が見られるのである。ところが、現在それが武四郎の本心ではない事が分かっている。それは最後の出版物「蝦夷人物誌」が長い間出版許可にならなかったことと、「原日誌」の存在である。
「原日誌」(注51)は公刊本「丁巳日誌」の「裏本」であり「元本」である。「丁巳日誌」では「迎合」が見られるが、「原日誌」には容赦の無い批判精神が充満している。この「原日誌」は、武四郎が「門外不出他見無用」と遺言したため、東京の松浦本家では120年の間隠されていたのである。つまり、発見され、「丁巳日誌」との読み比べがされるようになったのは最近のことなのだ。大げさな言い方をするなら、武四郎の実像はその読み比べによって初めて明らかにされるのだ。
だから武四郎を「憂国の士」と見る人々も、またその見方があるので武四郎を批判する人々も、「原日誌」以前の情報を元にしており、どちらも正しいとは言えないのである。
武四郎が「原日誌」を出版を目的とせずに、書き残した理由は、「日本人」の残虐性を後世にどうしても伝えたかったのだろう。
その不安が的中し、「暗黒の未開地の先達」だの「北方領土の証人」だの「サハリンも!」などとなっていたら、ストレートティーのコマーシャルではないが「わかってないなぁ」と言ってドアを蹴っとばして帰ってこよう、と決めた。
伊 勢 へ
深夜3時半に就寝したものの、7時には起床し宿舎を出た。記念館の規模を確認していなかったので、というより規模の聞き方が分からなかったので、見て回るのに何時間かかるか分からない。よってなるべく早く出ようと決めていたのだ。
大阪駅から環状線で鶴橋へ出て、そこで近鉄線に乗り換えるのだが、近鉄の鶴橋駅は観光の人でごったがえしていた。聞くともなしに聞いていると、伊勢・志摩に行く人と名古屋行きの直通電車を利用する人とが大半だった。人込みに閉口して、普通電車に乗ったが、電車内の案内図を見て普通電車で目的地の伊勢中川まで行かれるものが無いことを知った。最低でも急行に乗らねばならない。そこで最初の急行停車駅である布施で降りた。
布施の駅で時刻表を見ると、特急や快速急行を除けば急行は1時間に1本しかない。しかも、最も待たずに乗れるのは青山町行きで、伊勢中川の8駅手前が終点である。まあ、何とかなるだろうと思い青山町行きの急行に乗った。
通過する特急や快速急行に比べ、急行は実に空いていた。エアコンも利いていて快適な旅の始まりであった。
大阪から伊勢に向かう近鉄電車は、和歌山県と奈良県と三重県を大きな半島に見立てると丁度その根本を分断するようなコースをとっている。布施から出ると、信貴山縁起の信貴山や生駒山が左手に見える。また、見えるほど近くはないが右手には三重と奈良の県境にある大台ケ原山がある。大台ケ原は武四郎が生涯の内に何度も登った山で、彼の遺言で山中の名古屋谷に分骨(歯)もされている。(注64)
奈良県から三重県に入りしばらく行くと、冤罪の可能性で有名になった名張がある。そこをすぎ、しばらく行くと、各駅停車の終点の「青山町」である。もうその時にはひとつの車両には2、3人しか乗っておらず、旅行目的の人も見られない。
青山町から北に向かえば松尾芭蕉の出身地である伊賀上野である。また、伊勢中川の先の松坂は本居宣長の生地である。宣長は芭蕉や武四郎と違って、「放浪」をしなかった人物である。場所を移ろう事無く勉学・研究にいそしみ、その業績は偉大である。また、2畳敷の書斎「鈴屋」も良く知られている。武四郎も晩年1畳敷の書斎を作り創作研究に専心したが、どこかの住宅のコマーシャルのように「偉大な人を育てるには天井の高い家がいい・・・」とは正反対の生活を送っている。(注66)武四郎の父親である桂介は宣長の門下生で、書や茶をたしなんだという。改めて、伊賀、伊勢という土地の巡り合わせを考えてしまう。
青山町のホームに降り立ち、次の普通電車の時刻表を見ると1時間に1本であったが、連絡ができているのか20分程度待てば来るようになっていた。ホームからは田園地帯が広がり、非常にいい天気で、風も爽やかで、なんともいい気分になってしまった。
青山町から普通電車に乗ったのは私ひとりで、すでに乗っていた人も5、6人位しかいなかった。2輌編成なので、乗車している全員が見えてしまうのだ。私は物珍しげに車内の広告など見て回っていたので、他の乗客の注視の的になってしまった。
ここからはトンネルが続く。そしてお昼丁度位に伊勢中川に着いた。
私の当初の目論見は伊勢中川の駅前で昼食を兼ねて店に入り、店の人に記念館の場所を聞いたり、武四郎の地元での知名度について聞きたい、と思っていた。記念館に電話して場所を聞いたとき、中川の駅からタクシーで7分、との事で歩いて行く道順を教えてくれなかったのだ。私は元来歩くのが好きだし、タクシーに乗るという行為を旅としては「潔くない」と思っていたし、武四郎が生活していたと同じ土地の感触を味わってみたいとも思っていたのだ。
中川のホームに案内板がありそれを見たのだが、「三重県農業技術センター2キロ」という表示しかなかった。とにかく駅を出てみようと思い、改札口を出るが駅前には何もなか った。観光案内板という地図があったがそれにも載ってなかった。ある程度予想していた「知名度」だったので、びっくりもしなかった。駅の改札に戻り駅員に道順を尋ねると、中に入って他の人に聞いている。しかもその人がどこかに電話している。随分時間がたって出てきた駅員が言うには。
「ここからタクシーに乗って下さいとのことです。」
おそらく記念館に電話して聞いてくれたのであろう。 恐縮してしまった。
タクシーは駅前に唯一停っていたものに乗り込み、行き先を告げた。そして運転手さんにそれとなく聞いてみると、「名前を知っている程度です」との事だった。また、彼から言わせると武四郎の生地は中川ではないから、こちらの人は良く知らないだろうとのこと。記念館ができたから知った程度とのこと。
タクシーに乗り、何故徒歩の道順を言わないかが理解できた。信号もない水田に囲まれた道を延々と走るのである。時間にしては確かに10分弱だが、走行距離は相当の物である。歩いたら何時間かかかる距離かもしれない。
注51)この原日誌は秋葉実の努力により「丁己東西蝦夷山川地理取調日誌」「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」として公刊された。
61)近松の曽根崎心中の曽根崎である。ここにはお初天神があり、なぜか「縁結び」だと言う。東京向島の牛島神社にあるのと同じ撫牛がある。
64)私は一時武四郎が登った山のいくつかに登ってみようと思ったことがあり、その山を調べた。するとその数は膨大になった。
66)そういえば千利休の茶室「待庵」も2畳敷であった。


