イタリア映画祭2010 過去ログ転載 | leraのブログ

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イタリア映画祭2010 2010.5


今年のイタリア映画祭は全席指定席となった。

 いままでにあった混乱や不都合は解消したものの、3回券や5回券が無くなったし、全作品観覧用のパスポートも無くなった。実はパスポートが無くなったことが私には大きな打撃だった。

 映画を観たときの衝撃の大きさは事前情報の量と反比例する。よって事前情報を完全にシャットアウトして、それこそ上映時間のみ確認するだけで作品に対峙できるのはパスポートしかないからだ。

 気づくと10回目であると言う。その前段階だったイタリア映画大回顧(東京国立近代美術館フィルムセンター)から数えても11年という歳月が経っている。その大回顧の時に上映された「ポケットの中の握りこぶし I pugni in tasca」(1965)のマルコ・ベロッキオ監督が当映画祭にコンスタントに出品しているのはこういった企画の存在価値を示すものだと思う。

 さて、今年の作品群は充実していたように思う。テーマとしては「家族」「移民」「過去」で例年見られるテーマだが語りつくせないということだと思う。ただ今年が他の年と違うのは、「家族」というテーマにとって大きなインパクトを与える浮気が必ずしも男性中心ではなくなったことだ。

 例年テーマとしては浮気(あるいは不倫)が多く、妻の受けるダメージの深さが強調されてきた。(「哀しみの日々 I giorni dell’abbandono 2005原題は捨てられた日々」や「恋愛マニュアル Manuale d’amore 2005」など)

私は2006年の評論でこう書いている。

 イタリア映画祭2006でディーノ・アッブレーシャ(「恋愛マニュアル」の出演者)が座談会で言っていたことは、男性の80パーセント女性の60パーセントが浮気するとのことだったが、これは人間関係の荒廃を意味してはいないか?そんな日常生活の思考対象にならない風潮を主たるモティーフとして多々登場する表現情況とは何なのだろう?単なるトレンドなのか…(アッブレーシャに浮気を容認するニュアンスの発言があった時に会場のイタリア語圏女性の何人かからNOの声が上がった)

 カトリック圏で離婚に1年以上かかる事情がそうさせるのかもしれないが…

 ところが今年は違う。
 「ジュリアは夕べに出かけない Giulia non esce la sera」も「まっさらな光のもとで Lo spazio bianco」も「頭を上げて Alza la testa」も女性側の意思や都合で離婚している。また、「ジュリアは…」では小学生の女の子の話から、クラスメートの間でいかに両親の離婚が多いかが話題になっている。そんな状況の中での「家族」とは何かが問われるのだ。

 「頭を…」はその上に移民問題が重なる。まず妻がアルバニア人で、彼女の勝手で出て行った、という。父親は大事な一人息子と二人で暮らしているが、息子はアルバニア語も少し話せる。また、父親はルーマニア人労働者を嫌悪している。その理由は人種的なものもあるが、彼らが経験がないにもかかわらず経験ありと現場(造船所)に入って来て「ケガ」が多いからだ。ボクサーとしての将来があるその息子にルーマニア人のガールフレンドができる。

 「まっさらな…」は娘との出会いが中心であるが、「ジュリアは…」もそうである。「頭を…」では息子とのもうひとつの「出会い」が描かれている。どの出会いも単純ではない。 「まっさらな…」は夜間中学という階級を感じるプロットがあり、それは「頭を…」の場合も同様である。

 過去をテーマにすることはそれが現在に繋がっているからだが、常に戦争の影がつきまとう。「勝利を Vincere」はベニートムッソリーニのもうひとつの顔を、そして「やがて来たる者 L’uomo che verra」はナチスの親衛隊によるイタリア農村での虐殺事件という枢軸国でありながらドイツの暴虐の標的になったというアンビバレンツな状況を扱っている。

 これらは以前の「プリモレーヴィの道 La strada di Levi 2006」や「ひばり農園 La masseria delle allodole 2007」に通じるテーマであり、それはヨーロッパというテーマでもある。

 「やがて来たる者」のジョルジョ・ディリッティ監督が以下のように発言していた。

・映画は社会変革、社会を進化させるツール。また、人の良心を目覚めさせるものであり向上意識を社会に持たせるもの。

・記憶を前向きに構築するメッセージを込めている。テレビは画一化していて消費や購買欲を刺激するのみで、人生の歓びや生活を通じて自己実現するといったことから離れている。

・民族優越性を説くことの危険を知っているので、イデオロギーを超えた社会の実現を考えたい。

・正直に誠実に映画を作り観客と無二の関係をつくりたい。
 (岡本太郎氏通訳)

 なかなか誠実な監督で、それは作品にも表れていた。

 ピエル・パオロ・パゾリーニは60年代以降のイタリアの状況についてこう言ったと言う。
「画一化され、テレビと消費社会がすっかり変えてしまい、もはや庶民は存在しない」

 「勝利を」はカメラワークや色彩としての画像が素晴らしかった。またジョヴァンナ・メッゾジョルノの熱演が素晴らしく大女優としての存在をアピールした。「まっさらな…」はマルガリータ・ブイの魅力をさらに引き出し、本映画祭に不可欠な女優たちであった。

 例年触れているので必要ないかと思うが「地域性」はやはり強調されていた。これはイタリアが元々方言劇が盛んな「国」であったからだ。時代の関係もあるが「やがて来る者」はエミリア地方の言語で語られたため、イタリア標準語の字幕が入った。かなり多くのドイツ語が出てくるがこれには字幕が付かなかった。なぜなら登場人物たちがドイツ語を全く理解できないからだ。

 また、今年はトリノで撮影された作品が3本と多かった。その理由として天候がいつも悪く、陰気で、人々は扉を閉ざす…その雰囲気が映画に出る、と複数の監督が言っていたが全てがジョークではなかった。ただ大きな理由のひとつはフィルムコミッションが映画製作に大変理解が深く種々の援助があるからだ。

 その援助の話の時に、ほとんどの監督が「自分たちはマイノリティー」と言っていて、私は驚きを禁じ得なかった。私はイタリア映画祭の出品作品のレベルが高いのは、観客のレベルが高いからだと思っていたが、監督たちの話で行くとけしてそうではなく、自分たちも作品もメジャーではないと言う。

 数が少ないとはいえ、本映画祭が契機となって一般映画館で上映されたものや、DVDになったものもある。よって意義はまだまだあると思うのだが。

 画像は「勝利を」のジョヴァンナ・メッゾジョルノ