「子供たち」(Hijos/Figli 2002年)
では1970年代のアルゼンチンの軍事独裁政権に時間を戻さねばならない。そこでなにがあったのかを今だからこそ検証しなければならない必要に迫られるのだ。
それら歴史の、あるいは人類が犯してきた瑕疵が現代を規定していて、その瑕疵の諸相が未だ闇の中にあるために人々の困難があるのである。ナチスドイツに協力したイタリア人はけして少数ではなかったはずだし、アルゼンチンの独裁政策に荷担しあるいは利益を得たイタリア人(後にイタリア国籍を取得した者も含めて)もけして少なくないはずであるからだ。
「夜よ、こんにちは」
マルコ・ベロッキオは「夜よ、こんにちは」でモロの解放を「幻想」として表現し、あの時代に西側にいた人々が常に持っていた「割り切れなさ」という閉塞感に風を通した。例えそれが甘い幻想だとしても…
マルコ・ベキスは「子供たち」のラストで俳優に実際にアルゼンチンでのデモに参加させている。記憶が現実につくられつつあることを確認する行為のようにも思えた。そして、それもベロッキオの「幻想」に連動するようでもあった。「子供たち」の青年はスカイダイビングでパラシュートを開かなかったのであろうから…自らの父母が飛行機から落とされた可能性を「記憶」の中から消去できえないために…よってデモは「幻想」であり、あるいは多くの「子供たち」、それこそアルゼンチンに限らず地球上で 「国家権力」によって記憶をあきらかにできない多くの「子供たち」なのかもしれない。