向かいの窓 イタリア映画祭2004 | leraのブログ

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向かいの窓 イタリア映画祭2004

記憶の中の自分

 夫が夜の暗いキッチンで号泣している。この作品の中心はこのシーンにあるのではないか?そしてシーンの全てが表象であることも悟る。

 痴呆老人と出会いその老人がナチスのローマでのユダヤ人狩(1943年)と強制収容所の被害者だったことが分かる。それはその老人と出会うとか出会わないかに関わらず「歴史」として、あるいは「共通する記憶」として関係性が生じるのである。さらにその老人がホモセクシュアルであったことから、共通する記憶とともに極めて個人的な「記憶」にも関わっていってしまうのである。

 その出会いは当事者に退くことをさせない。

 その老人の「記憶」を求めることと、日常の生活を送っていくといったアンビバレンツな環境は、「彼女」に非日常を提供する。痴呆老人が大事に持っていた愛の手紙の表現に非日常を仮託し、その中で相互の存在を確認することになる。「向かいの窓」との間の空気層に意思が満ちる時でもある。彼女は多くの逡巡の中から非日常の同一化を企図し、向かいの彼の部屋に行く。

 彼が見ていただろう自分の「時間」を確認すべく、彼がどの窓から自分を見ていたのかを尋ね、その窓を開けてみる

 窓の向こうにあったのは、彼女の「記憶」であった。

 そして彼女は、「本来の自分の道だったはずの」進路を取る。そのために夫に会社を辞める事を告げる。

 夫の慟哭はその後にシーンとして登場する。

 彼女は非日常を同一化しようとしたことを夫に告げたのだろうか?

 ナチスの影が、あるいは歴史上にある非人間的な行為が、人に本来の道を歩ませる勇気を与えるのかもしれない。あるいは「何が重要なのか?」というプリミティブな問題提起をさせるのかもしれない。彼女はパンの生地を練ることでそれを見事に表現する。そして人には希望があることを示す。その希望が「共通する記憶」を基底層にしているはずであろうことに明日への「時間」を見る気がする。

2004.5.1鑑賞