小川紳介没後10年 現認報告書-羽田闘争の記録 1967年
この作品は小川に「キャメラは学生と権力の横位置に入るべきではなかった」と自戒させた作品である。
ここでは山崎博昭の謀殺の実態が追及される。証らかに山崎は警棒による側頭部の強打で死亡する。この山崎死亡の効果は何だったか?…学生の運動参加への尻込みだ…
樺美智子、山崎博昭、この二人の死が民衆運動に落とした影は大きい。特に山崎の死を運動に結び付けられなかった事象は実に痛恨である。擬似ブルジョワジーは死を恐怖する。資本投下したものを失うのを恐れる。学費という資本投下した対象を失うことを恐れるのだ。
あの時佐藤は訪米し、アメリカのベトナム戦争の支持を訴えた。その佐藤がノーベル平和賞を受賞した。全ての価値観は唾棄されたのだ。
羽田はあの時、彼らの羽田に向かわせた動機は十分に理解できる。ベトナムの民衆を殺戮することに耐えられなかったのだ。ならば、テレビでそれを見て何ら行動しなかった人々は何と思っていたのか?…
何も思っていない。彼らが言うことはいつも同じだ。
「それでは喰っていけない」
喰っていけない…という輩にかぎって裕福だったりするブラックジョークだが…
自らが喰うことのためにだけにベトナムの人々の命を奪うことに加担したのだ…その彼らの中に私も入っていた…私も入っている…
多くの人の幸せを願う運動が、どうして暴力的になり、しかも内ゲバへ向かったのか…世の中にこれほどの悲劇があろうか?
今、私は言葉を持てないでいる。
連赤をはじめとした内ゲバ死者の累々とした遺影があるからだ…多くの人の幸福を求めるという気持ちが、そんなに難しいものなのか?今問いたい。激しく問いたい。何も行動しなかった自分に激しく問いたい。
羽田闘争の時、権力側も大きな犠牲を出したが、権力側は何を守ろうとしたのか?実はそれも今となっては不確実である。
労働者として、強いて言えばあまり恵まれなかっただろう若年労働者としての機動隊が、多くの人々を幸せにしようと多くの労働者を公平にしようと思っている学生達に警棒の雨を降らせることは、実に悲しい。
疎外されたことの悲しさ、暗い悲しさを痛切に感じる。
そこにひどい弱さを感得する。
みんな弱かった。
みんなが弱すぎた。
何に弱かったのか?
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自分に弱かったのだ…
2002.2.7