小川紳介没後10年 圧殺の森-高崎経済大学闘争の記録 過去ログ転載 | leraのブログ

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小川紳介没後10年 圧殺の森-高崎経済大学闘争の記録 1967年

この作品は1967年の高崎経済大学の学園紛争を題材にした作品で、その後に各大学でおこる闘争のさきがけとなった運動である。

 実はある程度は予想していたが、予想以上だったので驚愕した。高経大ということでTさんの存在を意識はしていたのだが、キャメラがずっと追ったのは闘争委員会執行部のリーダーとしての角田さんだった。正直いって目が点になり口がポカンと開いてしまった。よってこの作品を評論するという行為は放棄しようと思う。

 彼は現在よりはるかに弁舌が闊達で、表情も厳しい。すでに退学処分になり起訴されていたからかもしれない。同調を拒否した新聞会のメンバーに詰め寄る激しい形相や、廊下で女生徒に優しく話しかける姿が、今では全く想像つかないのである。

 高経大は不正(水増し)入学を発端として闘争が開始されるが、大学当局も紛争に不慣れであり、弾圧装置としての周辺法も未整備だったため、とても抑圧的な態度に出る。

 公判(Tさんらの起訴事件)傍聴禁止などの暴挙は紛争の長期化と激化を惹起する。Tさんを中心とする闘争委員会は学生ホールのロックアウトを始め、それは6ケ月に及ぶ。

   夏休みに入り多くの学生が離脱し、10人に満たない人数でロックアウトを続けるが、結局逮捕される。公務執行妨害、公安条例違反、傷害で起訴されたところで映画は終わる。少なくともその後 横浜刑務所に服役することを私は知っている。

 あの時のデモでは、ほとんどの学生がヘルメットを被っていない。先導役の2,3人が被っているにすぎない。

 ヘルメットを被った時から運動は変質したと思うし、それは権力側の挑発であったと確信している。権力側の容認されたすさまじい暴力は学生にヘルメットを被らせ、それがさらに権力側の暴力を正当化していった、ということである。

 同じ年の羽田闘争(佐藤訪米阻止闘争)で山崎博昭が虐殺されたことが、防衛理論を飛躍させヘルメットとゲバルト棒を必然とさせたのであるう。まさかその二つの象徴が後年内ゲバを象徴するとは誰が予想したであろう?

 同じ60年代のアメリカ合州国ではマーチン・ルーサー・キングを中心とする公民権運動が大きなムーヴメントを迎えていた。キングはマハトマ・ガンジー流の非暴力を訴えた。

 日本の学生運動とは比較にならないほど大量の死者を出しながら非暴力を主張てせきたのか、その巨きなパワーはどこから来たのか?今、激しくそれを羨望する。

 Tは学生ホールの強制退去の予想を前にして「もうここでは失うものはない」と言った。だからTにはそれ以上の暴力は必要なかったのかもしれない。しかし、その後彼が革共同の「ある」セクトに入るのは必然だったのか?

 今引き返せるならあの時に帰ってもう一度勇気を持ちたいと思う…

 いーぐるのオーナーは、1967年12月14日にいーぐるをオープンさせているが、学生運動に大変冷ややかな態度で、ビル・エバンス…だからビル・エバンスを聴いていたと言う。そうだろう…正直に言えばあの当時の都市出身の学生の多くはそうだったであろう。

 彼らの思想より、松本楼が焼けた事を重視したと思う。それは何故か?我々が(あえて我々と言おう)守る存在にあったのだろう。我々は権力に迎合しようとしたのだろう。我々は自らが搾取者であり、不公平な制度の受益者であることを認めたくなかったのであろう。

 1967年の前年、66年にはビートルズが来日し(コルトレーンが来日したのも同じ年の夏である)、都市生活者はその音楽に熱狂していたのだから…イギリスのアイルランド支配や、フランスのアルジェリア支配やアメリカのベトナム介入…等をすべて無視して…

 今では全てが遅いのだ。

 Tは失うものは無い、と言い闘争に全身を投入した。実は我々も失うものなどないはずなのに、幻想だけを与えられ権力に阿ねたのではないだろうか?

 あの時、私は何をしていたのか?

 あの時私はテレビを見ていた。山崎博昭を轢いたというカマボコを見ていた。そして、世の中が混乱することを、権力が狼狽することを期待していた。しかし学生勢力に思いを寄せることはなかった。

 私の存在とは、一体何だったのだろう…

現認報告書-羽田闘争の記録 1967年に続く

2002.2.7
高崎経済