あるジャズ喫茶オーナーの肖像 その4
その当時のコルトレーンの影響力がいかに大きいものだったかについて述べておきたい。
新宿に「マルミ」というレコード屋があった。現在では伝説的でもあるのだが、その理由は輸入ジャズレコード専門店だったからだ。ジャズ喫茶オーナーのほとんど、ミュージッシャンの多くがそこへ通ったと言っても過言ではないだろう。 現在渋谷でジャズレコード専門店JAROを経営されている方も、マルミとの出会いが自分の将来を決めたと言っている。
そのマルミのオーナーがコルトレーン来日時の思い出としてこう語っている。
コルトレーン来日の夜、店から帰って来てウィスキーを呑みながら考えた。「東京プリンス(ホテル)に彼はいる」突然考えが浮かんだ。東京プリンスホテルの電話番号を問い合わせ、電話をした。 「ハロー、ハロー」の声が聞こえた。「フーズ・スピーキング・プリーズ…ジョン・コルトレーン」 「私の名前はスズキ、明日のレセプションに招かれている。」としどろもどろに話した。 話し終わり、家族のいるところへ行き「今、コルトレーンが電話に出た!」と大声で叫んだ。家族にジャズ愛好者はいなかったので、誰の返事もなかった。 涙が止め処も無く流れた。あとからあとから涙がひっきりなしに出た… (コルトレーン賛歌になっているような…)
あるジャズ喫茶オーナーの肖像 その5
話しが脱線したようにコルトレーンについてのものになってしまったが、それには意味がある。それだけ影響力の大きいアーティストが存在したという事である。彼は多くのプレイヤーに影響を与え、多くの聴き手に影響を与え、多くの若者に影響を与えた。 ジャズという音楽が、音楽だけに留まらず「多くの人生」に大きな影響力を持った「時代」があったのである。
その時代を少し振り返ってみると、人々が何を求めていたか、人々が心に何を求めていたかが分かるかもしれない。 前年の1965年という年は、マルコムXが暗殺された年であり、自由の行進が行われた年であり、後に「長く暑い夏」と称される暴動の多発した年であり、米軍がダナンに上陸し、北爆が開始された年であり、サイゴンのアメリカ大使館が爆破された年である。
1966年という年は、ブラックパワーが提唱された年であり、ジミー・ヘンドリックスがエクスピアリアンスを結成した年であり、北爆が最大になった年である。
後にJの母親がコルトレーン離日時の時をこう回想している。 「私たち親子だけがゲートの中まで見送らせていただいて、Jは飛行機が見えなくなるまで泣き通しでね、最後の別れのとき、ギャリソンが、かけていた眼鏡をはずしてJに与えてくれました。」
あるジャズ喫茶オーナーの肖像 その6
Jの存在はジャズに関心を持っている人々の間で「生きる」こととなる。
函館で「バップ」というジャズ喫茶を経営されている松浦善治氏はあるコラムでこう述べている。
「以前よくワイフや店の客の間で話題となった、コルトレーンの日本全コンサートを聴いて回った若者は今はどうしているのだろう?今でもジャズを聴いているだろうか?」
この発言は1991年に発刊された本の中での言葉である。 氏の脳裏には30年の間Jの存在が「生きて」いたのである。
さて、コルトレーンに心酔した青年が、コルトレーン離日後にしようとした事は、「ジャズに生きる」ことだった。その手段のひとつとして彼はジャズ喫茶を始めたのだ。
無論資金も何も無い青年ゆえ、家族や友人の協力と多大なる本人の努力で小さなジャズ喫茶をオープンさせたのである。
現在、私の手元にスイングジャーナルの1967年9月号がある。それにJのジャズ喫茶の広告が載っている。店の名前は「チーター」という。場所は東京都豊島区大塚である。