あるジャズ喫茶オーナーの肖像 その7
チーターは7、8人しか入れない狭い店であったし、レコードも80枚程度しかなかった。さらにそのレコードの内コルトレーンのものが50枚であった。
客からのリクエストに対してA・B面両方かけたという。
ほぼこれで「あるジャズ喫茶オーナーの肖像」は終りを迎える。
私がここで言いたかったのはジャズ喫茶を始める動機である。「商売」として、あるいは「もうかるからという理由」でジャズ喫茶を開業した人は、おそらく皆無であると思う。 ジャズというものへの憧憬や、ジャズというものへの執着がジャズ漬けの生活を志向し、その結果がジャズ喫茶であったに過ぎないのである。ジャズ喫茶オーナーは「ジャズの聴き手」としてはそれほど不自然な存在ではないかもしれない。
さらに付け加えるなら、ジャズの周辺事情も加味されていたであろう。単なる「音楽」ではないジャズがそこから生まれる。
その後Jがどうしたか?それを付け加えてエンディングにしたい。
彼は、1976年4月20日、29歳の若さで他界してしまう。彼のジャズに対する熱意や、コルトレーンに対する情感が病魔によって絶たれてしまった事は、実に痛恨の極みである。
おわり
あるジャズ喫茶オーナーの肖像 補遺
1967年7月17日にコルトレーンが死んだ事はすでに述べた。その衝撃は今では想像もつかぬぐらい激しいものだった。
立花 実という若いジャズ評論家がいた。彼はコルトレーン追悼の言葉を次のようにスイングジャーナルに載せている。
「(略)私は口あたりのいいレトリックだけの口先だけの恥ずべき言葉でジョン・コルトレーンについて語りたくない。彼の音楽は至上の美しさで光彩を放っているから。不滅である。 私は生活ということをジョン・コルトレーンから学んだ。アメリカはジョン・コルトレーンを生んだことを全世界に誇るべきだ。もう、このばかげた生存競争をやめようではないか! 私はやめる。私はジョン・コルトレーンの音楽、それにジョン・コルトレーンのような偉大な人間に接しえたことを光栄に思う。(略)」
激した、しかし心からの叫びのため、つい引用が長くなってしまった。
彼の言う「ばかげた生存競争」とは、おそらくヴェトナム戦争のことであろうし、公民権運動のことであろうし、冷戦のことであったと思う。
彼が「私はやめる」と宣言した本意はよく分からない。分かるのは1968年3月8日に34歳で自死してしまった事だ。 コルトレーンが死んだ翌年の4月、マーティン・ルーサー・キングが暗殺された。それはすさまじい衝撃として全世界に伝わった。ジェームス・ブラウンは多くの暴動が起き、多くの虐げられた人々の命が再び奪われるのを危惧し、全米のマス・メディアで「今日は家に帰ろう」と呼びかけた。 その呼びかけの故か、あるいはキングの非暴力運動の故か、暴動は散発にしか起きなかった。
4月にはロバート・ケネディが暗殺され、ヴェトナムでの虐殺事件「ミライ(ソンミ)村事件」が起きるのもこの年である。メキシコオリンピックの表彰台でブラックパワーが誇示され、ウッド・ストックが開催されたのもこの年である。
なんと激しい時代であったことか、なんと暴力の吹き荒れた時代であったことか…
立花実の死に対し、岩波洋三が追悼文をスイングジャーナルにこう書いている。 「(略)「ジャズは生活である」という彼の根本的な考え方には共感していた。彼は分析し、分類するといったタイプの評論家ではなく、むしろ詩人ではないかと常々感じていた。(略)「生」を尊び、常に「生々していること」の大切さを説いてきた彼がなぜ死を選んだのだろうか。生を渇望している人間は、それをはばむなにものかに出会ったとき、むしろ死を選ぶものなのだろうか。私には悔やんでも悔やみきれないものがある。(略)」
立花実には「ジャズへの愛着」という遺稿集がある。 おわると思う。