映画パッチギ!
過去の時点で用意された不幸の風景…
この作品は応援はしたいと思ったものの、見たいとは思わなかった。それは、自分の過去を遡る重い個人的な「旅」になると思ったからだ。その「旅」に出てしまうと終わりはないし、評論も評価も感想も言えなくなるからだ。またある意味ではその過去が置き去りにしてきた「時代」という予感もあった。
前もって準備された「諦念感」もあったが、ある偶然から観ることになってしまった。(観たかった韓国映画「ソマリア」と飯田橋のギンレイで併映されたのだ)「平日の午前」という自分にとっての弁解も作用したかもしれない。
作品は娯楽映画としても、青春映画としても、たいへん良くできていた。しかし、やはり、私の予想は見事なほど当り、時間が経つにつれ体はシートに沈み、頭は垂れていった。
映画が設定した時代、私は中学3年生だった。映画に登場する人々は私より2、3歳年上でしかない。だから自分の生きた時代として遡れるのかもしれないし、いつでも遡れるほど激動の時代だったとも思う。
出てくるモチーフを羅列するとこうなる。朝鮮戦争、文化大革命、毛沢東語録、ベトナム戦争、北爆、モハメド・アリ、マーティン・ルーサー・キング、植民地支配、在日、帰国船、強制連行、全共闘、フォークソング、グループサウンズ…
私が生き、私が接した「時代」であることは紛れもなく、さらにその時自分は何をしていたか、あるいは何をしなかったか?を問われるのである。それは辛いことだと思う。
さらに、朝鮮学校との関わりについても回想を強いられる。
映画にはかなり誇張された暴力が出てくる。暴力シーンそのものは誇張かも知れないが、実態はけして誇張ではない。その頃の東京では、朝鮮高校と国士舘高校(国士舘高校は新聞では仮名だったかもしれない)との暴力事件が新聞に載ることは珍しいことではなかったし、実際に私も両校の多数の生徒が一発触発寸前の状態にあるのを西日暮里駅と吉祥寺駅で2回見ている。その時私は何をしたのか?なにをしなかったのか?上品な部類に入る私立学校に通っていた私は恐怖心を感じるとともに、それを隠すために「したり顔」で立ち去った。
映画には在日の人々の貧しさも出てくる。少女は移り住んできた都市名を何箇所も言う。これらは私が知らなかった、知ろうとしなかった「かかわり」のひとつであると思う。確実に身近にいたはずの在日の人達を私は「存在」として認識したことがなかった。
韓国・朝鮮籍(今となっては確認の術はない)の人達は何人か知っていた。同級生もいたし、友人のガールフレンドにもいた。しかし彼女ら彼らは私にとっては「在日」ではなかった。私立高校に通っている少なくとも「裕福な」高校生だった。それが私の前だけでの姿だったのかもしれないが、私にとっては「在日」ではなかった。私は「在日」を知らず「在日」を知っていたのだ。
ところが毎朝の通学で朝鮮学校の制服を着た少女達は「いた」のである。
私が高校一年の時、日暮里経由で目白まで山手線に乗って通学していた。日暮里で乗ってくるチマチョゴリの制服を着た少女がいた。彼女はいつも池袋で降りるのだが、強く惹かれた。時には一人で、あるいは友人とほぼ同じ時刻に同じ車両に乗ってきていた。私の乗った車両が日暮里駅に入ると、常に彼女の存在を目で追った。彼女はいつも同じ紺色の鞄を両手で前に持ちホームで待っていた。同じ時刻といっても山手線は本数が多く、さらに順法闘争(当時国鉄は法律に沿ったストライキを「順法闘争」と称し安全確認の時間を大幅に取り電車を遅らせるという運動をした)などで電車の時間もかわりやすかったので、毎日というわけにはいかなかった。それでも2日に1回は「会え」ていたような気がする。
日暮里から車両は満員となり、その状態は池袋まで続くので、車両の中で彼女の姿を見る時間はあまりなかったと思う。日暮里駅に着きドアが開く時私はホーム側のドアの所に立つようにしていた。それは日暮里駅で開くドアが進行方向右で、池袋で開くドアが逆だったからだ。日暮里で多くの人がどっと乗ってくるときに、その人たちと一緒に逆のドアの所まで行ってしまうと、池袋で一旦降りなければならなくなるからだ。池袋で一旦降りると、混雑のためすぐその車両に乗れない場合があった。彼女はその逆で、日暮里で乗るドアの反対側のドアのところまで行くと池袋で降りやすいのである。だから、電車がホームに入っていく時と、彼女が乗ってくる時に彼女を目にすることができた。ところが日暮里のホームが混雑しているため、彼女は常に同じドアの前に立つということがなかった。ほぼ車両は同一だったので、私はその車両の前の方のドアのところに立つのが常だった。すると電車がホームに入る時、彼女が立っているかどうか分かるからだ。しかし、彼女が私に最も近いドアから乗ってくることはけして少なくはなかった。そのこともあり、私は彼女も意識していたと思っている。時として彼女の実に優しげな視線を感じたこともあったからだ。私と視線があった後、実にゆっくりとした動作で視線を元に戻す仕草は今でもはっきりと想い出すことができる。
夏休みに入り通常の通学は無くなったものの陸上部の練習のために学校に通った。その時もいつもの時間に電車に乗った。陸上部の練習時間には随分と早い時間であったが彼女に会えるかもしれないという気持ちがあったからだ。そのお陰で図書室でずいぶんと本が読めた。しかし、夏の間彼女とは会えなかった。
その当時の池袋は丸物というデパートがパルコになる直前で、東武の「ぶらんでーと」とネーミングされたデパートがオープン(あるいは新装)する前だったと思う。
私がある土曜日の学校の帰り、池袋の楽器店にエレキベースの弦を買いに行った。学校の友人達とグランドファンクレイルロードのコピーバンドを組んでいて私は乞われてベースを担当していた。それは単にベースがいないという理由の招聘だった。そこで安物のベース(グレコのバイオリンモデル)を秋葉原で買い、元々付いていた弦があまりいいものではなかったので、その弦を交換するために買いに行ったのだ。(その当時流行った黒いカーボン弦にしたと思う)弦の他に途中で買ったクロワッサンが入った紙袋を持っていた。
山手線のホームに上がった時にベルが鳴っていて、あわてて階段を上がり目の前にあったドアから車両に飛び込んだら目の前に彼女が立っていた。60センチぐらいの間隔で完全に目が合った。双方で予想しない出会いだったためか目をそらす事ができなかった。実際にはほんの数秒だったのだろうが、ひじょうに長い時間に感じた。すると彼女の唇がかすかに動いたように見えたのだ。私は彼女がなにか言ったのではないかと思い「は?」と間抜けな言葉を吐いた。すると彼女はまぶたを何回かしばたたかせたのだ。
実はベルは同じホームの別の電車のものだった。すると彼女と同じ学校の生徒が何人か乗ってきた。彼女はその中の何人かと言葉を交わし、私はその場を去った。私は別の車両に移り、気持の混乱を解消できずに、ドアにもたれながらむりやりクロワッサンを食べた。
その思い出は私の中に澱のように沈潜していったと思う。なぜ澱のように沈潜したのだろうか? そして私は別の時間の別の車輌に乗るようになった。
その当時の東京では朝鮮高校は「恐れられた」存在だった。ところが私は実際に暴力の被害者になったこともなければ、その現場を見たこともなかった。パッチギ(頭突きのこと)はこちらでは「チョーパン」(差別的な表現かもしれない)と言って怖れられた技として有名だった。(この呼び名はつげ忠男の作品にも出てくる。)すべて伝聞と噂だった。実際に目にしたのは、ホームにたくさん集まって存在としての「対立」をしているところであるが、暴力がふるわれたシチュエーションは知らない。それに今になって不思議に思うのは朝鮮高校の男子学生をほとんど見たことがなかった。チマチョゴリを着た女子学生は良く見かけたが、ほとんどが真面目な学生達だった。
私はけして品行方正ではなく、学校の帰りにジャズ喫茶に行ったりビリヤード(当時は球撞きと言った)に行ったりしていたので、繁華街への出入りもしていたがそういったトラブルに遭遇することはなかった。
その当時の朝鮮高校にまつわる「暴力」に思いを馳せたことがあっただろうか?「在日」が自分の身を守る方法の数少ない選択肢のひとつが暴力であることを知ろうとしただろうか?彼女彼らが大学受験をする時に大検を受けなければならないことを知っていただろうか?彼女彼らが国外に出る時に「再入国手続き」をしないと「帰国」できないことを知っていただろうか?敗戦後の日本が朝鮮戦争のアメリカ特需で経済復興したことを知っていただろうか?朝鮮戦争で何百万という人が死んだことを知っていただろうか?東京の下町の工場で作られたボール爆弾のパーツが朝鮮半島の多くの人の命を奪ったことを知っていただろうか?アメリカが朝鮮半島で原爆を使おうとしていたことを知っていただろうか?共和国と韓国とは休戦状態であり、戦争がまだ終わっていないことを知っていただろうか?強制連行され強制労働をさせられたことを知っていただろうか?知らなかった。私は知らなかったが、彼女彼らは間違いなく知っていたのだ。だから身近な存在であるはずなのに、全く身近ではなかった。存在は知っていた、しかし知らなかった。知ろうとしなかった。この齟齬は一体どこから生まれたものなのだろう?こんな不幸な行き違いを誰が作り出したのだろう?
あの時、私はどうして「在日」を知らなかったのか?隔絶されていた、あるいは外的な圧力で基本的に接点が許されなかったと思う。差別するしないの前に「存在」がなかったし、話題にのぼることもほとんどなかった。文化交流などなかったし、現在のように料理を食べる機会も少なかった。祖父母の世代は「ニンニク」でさえ食べることをしなかったが、これは「在日」と見られることを極端に嫌っての行為ではなかったのか?と今では思っている。完全に隔離されていたのだと思う。「知っているが知らない」という、そんな差別的な、そんな不幸なことがあるだろうか?
私はこの作品が、自分の過去を遡る重い個人的な「旅」となると予想した。 映画の中でベトナム北爆のシーンがニュース映画として出てくる。あの時、沖縄の米軍基地から爆撃機が飛び、ベトナムの何万という人々が虐殺されていたことを私は知っていた。モハメド・アリが徴兵拒否しチャンピオンを剥奪されたことも知っていた。イムジン河という歌も知っていた。しかし何をしたのだろう? また、教科書には全く載っていなかったし教師からも教えられなかったが、太平洋戦争の時の朝鮮人の存在や慰安婦の存在は知っていた。これは中学からよく映画を観るようになり、一挙9時間31分を上映した「人間の条件」を観たからである。しかし何をしただろう。
学生運動が盛んで、ビラを読んだり、アジ演説を聞いたりした。国際反戦デーの騒乱の時もすぐ近くに居た。しかし何をしただろう。
キョンジャ(ヒロイン)が松山(キョンジャに思いを寄せる「日本の」男子高校生)の母と話すシーンがある。彼女は母の対応を確認するのだ。松山の母の戸惑いが手にとるように伝わってくる。その会話に胸が締め付けられた。もし、あの時、私の「は?」の後に彼女の言葉があったら、確認の対象は私自身であったかもしれないからだ。その伏線は松山が彼女の家に電話をするシーンにある。キョンジャは松山の言葉ひとつひとつに「確認」をしているように思える。 そんな確認作業が私の人生にあっただろうか?なかった。 その「確認」とは、目の前の人間が「在日」を、あるいは「自分」という存在をどう思っているかを推し量る作業である。しかもそこに使える単語は限られている。そんな確認作業が私の人生にあっただろうか?なかった。 キョンジャは松山にすでに警告を発している。 2回目に音楽室で会った時、3回目に音楽室で会った時の2回「警告」を発している。自分の存在を知っているのか?という確認と知っていることを前提とした「出会い」に対して警告を発している。電話はその警告の後のものだったのだ。その警告を松山が理解したかどうか、それを確認する最後の作業が松山の母との会話だったのかもしれない。
キョンジャが京都の放送局の前で松山を待つシーンがある。私はそのシーンで滂沱たる涙を流した。34年前に通学路で遭遇していた少女が蘇ったからだ。髪型がそっくりで、顔の輪郭もそっくりだった。そして「澱のように沈潜」していった思い出も蘇ったからだ。あの時なぜ彼女に声をかけなかったのか?もちろん羞恥心もあったかもしれない。しかし、彼女がチマチョゴリを着ていなかったら間違いなく声をかけていたと思うのだ。
私はその時の自分の一瞬の「躊躇」に、そして彼女の感得しただろうある「感慨」に涙を流した。私は嗚咽しながらそのシーンから目が離せなかった。今まで自分という存在の奥底にしまい込んでいた「澱」がどういったものか知った瞬間だった。いや、元々知っていたのだと思う。それを「知る」ことができた瞬間だったのだ。またその「時間」の喪失は激しい悔恨の念を生んだ。若いということがあまりに惨酷であることを知った時でもあった。
彼女はどうしているだろう?あの土曜の午後を覚えているだろうか?そして、私が躊躇した理由について考えただろうか?考えたとしたらどんな結論を出したのだろう?それが今、無性に知りたい。
私はもうひとつの問題に答えを出さなければならない。 あの土曜の午後の後、私は通学の時刻も車両も変えた。その理由についてだ。 まずあの「躊躇」の説明・弁明をしないと先に進めないと思った。しかし「躊躇」の説明などできる訳がなかった。そして、少なくとも彼女を「からかった」のではないこと、それを行動で示そうと思った。なぜならチマチョゴリを着た女子学生への「いやがらせ」が頻発していたからだ。
できるわけもない「躊躇」の説明を前提として必要とし、誠意を示す事が「会わない」事、というのはなんと不幸なことだったか?私は30年以上たって疑問に答えを出すことができ、さらにその答えのあまりの不幸さに涙が止まらなかった。
在日の人たちには在日の人たちの見方があり、関西の人には関西の人の見方があると思う。そして、私のような60年代の東京で電車通学していた高校生にはそれなりの見方があると思う。だから評論評価感想を述べようと思わない。 繰り上げ卒業の生徒が看護士になったり、かなり誇張された暴力シーンなど、不自然な設定はあるものの、ただただいとおしい作品であるということだけが言える。

