
特別な関係だけがつくれる安穏とした空間
NANA…心を解き放つこと
トンコリ奏者の加納オキがライブで、思想がなければアートじゃない、と言ったことがあった。その言葉は至極当然なのだが、若い音楽表現者から発せられた時にある種の感慨を持ったのは、閉塞的な状況との関連が深かったからだと思う。
かつて日本でも音楽表現がプロテストだった時代があった。歌詞に意味を持たせようという意思が自然とプロテストソングになった時代があった。実は「時代があった」という言い方は正確ではない。現在でも音楽にプロテストを込めるミュージシャンはいる。五十嵐正史とソウルブラザーズは石原政権を批判し、自衛隊派兵を批判したし、趙博は朝鮮半島の植民地支配や在日差別を指摘してきた。他にも多くのプロテストミュージシャンはいるのだが、彼らがマスメディアに出ることはない。
その状況を「閉塞」と称しているのだ。かつてアメリカでは反体制色が強いという理由でロックを禁止した州もあったが、現在の日本ではロックミュージシャンが首相の要請でピアノを弾いたり、スポーツイベントで君が代を歌ったりする現実がある。
それは日本におけるパンクロックやラップミュージックについても言える。中身のない歌詞とうわべだけのファッションである。ファッションについて言うなら、パンクロックは「ゴミ捨て場で拾ってきた服」であり、ラップは刑務所のダブダブの囚人服を表現している。それらはサッチャーの「経済政策」という名の「民営化」によって生じた貧困層の拡大と若年層の失業問題を告発していたり、アメリカの刑務所の収容者や死刑囚の絶対多数がアフリカ系であることの理不尽さを告発していたりするはずだった。
スペイン語で「神はいない」というスペインのアナルコ・ハードコアバンドSinDiosはアナキズム運動の支援の中でこう言っている。
「ハードコア・パンクとは、資本主義との闘争というもっと広範囲な運動から派生した文化だ。現在でも年間600万人以上もの子ども達が飢えで苦しんでいる。これらの事実を知りながらも関心を持とうとしないなら、あなたは所詮この殺人システムの一部なのだ。真のDIY精神と闘争、これがパンクスにとって常に重要であるばずであり、私はこの立場で発言している」(アメリカ「ハートアタック」のインタビューより)
また、2002年に以下のメッセージを発している。
「国と国旗は俺たちにとって糞も同様であり、飢餓であれ病気であれ直接の武力攻撃であれ、大量殺戮攻撃に悩まされている人々に手を差しのべ、俺たちが認める唯一の人間的条件とは地球規模の抵抗で搾取されている人々のものだ、ということを今こそ世界に示すときなのである」
日本で欧米の若者音楽を志向しさらにマーケット的にメジャーを目差す者が通る道は決まっていて、それはプロテストを捨てることである。そのことは音楽メーカーとマスメディアという資本主義企業にへばりつくことを意味する。 よって私は日本のマスメディアに登場するロックやパンクに深い猜疑心を抱いているし、また若者に対する期待の裏返しとして批判的でもあるし、さらに私たちの若年層に対する働きかけの力量不足を指摘されているようで見て見ぬふりをしたい存在でもあった。
この作品を語る場合避けて通れないテーマのひとつがパンクであり、もうひとつが少女マンガという存在である。石塚ともが少女マンガを「いつかは王子様と結ばれるのが幸せ、というカップル幻想を助長するという視点から批判されてきた」と指摘したがまさしく私もそう思っている。例えば、伊藤野枝が戸籍制度を批判し婚外子を生んだといったようなエピソードをそこに見ることは困難である。女性が抑圧された階層であるという観点が最も欠如しているのが、いわゆる少女マンガではないかと思っている。
だから私がこの作品を鑑賞し、さらにこの作品に対し評論しようとすることは幾多の「困難」を乗り越えねばならなかったのかもしれない。しかし、この作品で日本のパンクロックに対する批判を感じることも、少女マンガのジェンダーにおける脱現代性を感じることもなかった。逆に多くのシンパシーを持ったし、現代的な視点も感じた。
ナナ(ここで言うナナはパンクロックバンド「ブラスト」のボーカリスト)とハチ(もうひとりのNANA)の位置の違いを明確にさせるシーンがある。ふたりがハチのボーイフレンドのアルバイトが終わるのを待っていて、彼が他の女性と出てくるシーンである。それは明確なハチの失恋を表現しているわけだが、すでに諦めたハチに代わりナナはその男女を批判し、その批判は煮え切らないハチにも向けられる。 それはナナが「失うことの大きさ」を身をもって知っているからに他ならない。この立場の明確な違いはナナとハチの関係を決定づける。その時ハチはナナの表現を受け止める場所に立たされるのだ。そして「特別な関係」(前述石塚ともの表現)になる。 この「特別な関係」は友情などという陳腐な表現で語ることの出来る「関係」ではない。
ハチがナナを地元のコンサートに連れて行く。そこには悲しみの象徴がある。孤独の悲しみである。その孤独から脱却する術としての別離の象徴でもあり、自分を確認するために捨ててきたものの象徴でもある。 そのコンサートで二人は涙を流し手をつなぐ。ハチの無私的な愛情を感じる瞬間であり、特別な関係の確認でもあった時である。だからその日の夜、ナナはハチの所へ戻ってくるのだ。そこはナナが見つけた唯一安穏とした場所だったのである。
社会から疎外された孤独な若者が(ナナとレンは「家族・家庭」から疎外されている)カタルシスの快感でロックに出会い、その道で生きていくためにメジャーを目指しそれが「別離」と「喪失」を所産し、結局は資本に取り込まれるという図式は実に現代的であるのだろう。だからそれについて批判することは容易ではあるが本質に迫れないため意味が希薄になる。だからこの作品中でパンクについて批判することをしようと思わない。 そしてこの原作がいわゆる「少女マンガ」でないことも知ったし、ここでの「特別な関係」はこのジャンルだからこそ表現できたと思う。この特別な関係は今まで定義されてきた人間関係にはあてはまらない抑圧されてきた階層の中でのみ生じる「関係性」であるように思える。だから適当な言葉がない。よって「特別な関係」と言う。
ナナはハチに「ナナちゃん」と呼びかける。その呼びかけが実に優しく感じるのはナナの生い立ちを知っているためか、あるいは演者の力量か…そのためかナナが歌うパンクにパンクとしての違和感を感じないのだ。甘い評者かな。甘くてもいい、ナナの切なさと優しさを感じたい時もある。 ナナの演者は動かぬ目、物言わぬ目で演技をする。その目が生い立ちや、受けただろう多くの差別的な言辞や、深い孤独をうかがわせる…ナナがいとおしく思えるのは原作の力か、演者の力量か…
この原作マンガはアメリカのゲイセクシャルの人達に多くの支持を受けているという。性的な関係ではなく、きわめてメンタルな「特別な関係」が彼女・彼らに共鳴するのだと思う。抑圧されたグループ、疎外されたマイノリティーグループの中で感じることのできるシンパシーである。これはあらゆる垣根を打ち破ったヘテロセクシャルの者にも理解できる可能性はあると思う。
2005年9月3日鑑賞
