少子化 孤育と競育の中で 2006年02月20日
現在東京ではジェンダーフリーという言葉は「禁句」になっているらしい。
土地本位制の中で「核家族」となり、土地本位制の中で過剰な債務者となる。子どもの養育環境は「孤育」にならざるを得ない。そして養育の中心はほとんどが女性が担う。
さらに脅迫資本主義とコンプレックス産業の中で、子どもの養育の成功が養育担当者(女性)の成果とみなされ、養育担当者も競争にさらされる。多くの子どもに「成功」を実現することは困難だと思うから、希望子ども数と実際の子ども数に乖離が発生する。
その現実の中で出会うのは「過干渉」と「ネグレクト」である。
養育担当者の過干渉で子どもは「自分の時間」を失う。そしてその過干渉によって発生する強制を「本人が望んでいるから」という責任転嫁が襲う。
虐待を受けた子どもの多くが養育担当者をかばうのは、子どもと養育担当者の「階層」の問題でもあるのだ。本当に子どもが自由に発言できるのは、養育担当者の呪縛から抜け出た時しかない。
養育担当者が「孤育」「競育」から離脱した場合が「ネグレクト」である。
アメリカでは朝食の給食を始めたところもある。
これらの事が意味していることは、養育責任は誰にあるかという問題である。ルソーの時代のフランスでは、親が子どもを育てる「システム」は一般的ではなかった。親だけが子どもを育てる「システム」はかなり近代の「発見」でもあるのだ。
養育責任を個人に押し付けるのはあまりに「過酷」ではないだろうか?子どもの養育を社会が担っていく(そのために社会保障があるのだが)という時代は来るのだろうか?
少子化の問題の大きさは、人口の減少の問題ではなく、自由資本主義社会の中でプリミティブな「希望」が制限されることにあるのである。
「人口問題」について喧伝する言論人が多い。これは「市民が国を必要としているのではなく、国が国民を必要としている」という論理と同じである。
何も資本主義の負の面ばかりを見ている訳ではない。
ただ「資本主義は欲望を欲望する」というジョークが笑えないだけである。
(「養育担当者」なる珍奇な表現は苦肉の策である。養育を担うのは必ずしも父母ばかりではないし、「保護者」なる行政法律用語はすべての養育者をカバーしているとは思えないからである。)