舞台 「母」 ブレヒト 2007年10月10日
昨晩は東京演劇アンサンブルの公演「母」(演出:入江洋佑)を観た。広渡常敏追悼だと言う。広渡常敏が死んで1年たつのだ。
あの時代。
あの時代は、第一次世界大戦、ロシア革命、ドイツ革命の時代であり、ゴーリキーとベルトルト・ブレヒトとケーテ・コルヴィッツとカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグが同じ時間軸上で「生きていた」時代なのだ。
しかし、明確な「敵」として国家や資本家が見えた「幸い」な時代なのかもしれない。現代のように法人資本家の時代では、相手が見えず自己責任の深淵に堕ちてゆくだけだ。
労働者の妻として、そして寡婦として、また労働者の母として、彼女は工場経営者や国家に疑問なく隷属する。よって彼女は人から「おかみさん」「おっかさん」と呼ばれる。そして、女として、妻として、母としての重複搾取を受けている。
ヴァルター・ベンヤミンはこう言っている。
「母親たちの革命化のあとには、もはや革命化されるべきものはなにもない」
彼女は息子を守るために、あるいはわずかばかりの当然の要求をするために「外に出る」。それは彼女の自己獲得の道でもあった。字を学び、学習をし、意志は強固になっていく。彼女は人を集め、学べ、学べと訴える。知ることがあたかも疎外されていたことに対する復讐であるように…
意志は強固になっていくが、肉体は老いていく。
大戦が始まり、病床にある彼女は反戦を言うために外へ出て行く。そして自分を獲得し、自分の名前を獲得する。そしてこう言う。
生きている以上、「決してできない」なんて言ってはいけない!「決してできない」が「今日にもできる」にかわるのだ
彼女は名は、ペラゲーヤ・ウラーソワ
舞台は両脇が高くなった湾曲で、背面はホリゾント。道具は椅子や机といったものだけ。その湾曲した舞台に「群集」が立つ情景は圧巻である。ペラゲーヤ役の志賀澤子の存在がたいへん大きく、意志と肉体の逆相を表現してあまりあった。画像は私のスケッチ。
ブレヒトの芝居小屋にて
