未完の戯曲…ヴォイツェックとファッツアー
気になる「未完の戯曲」にゲオルグ・ビューヒナーの「ヴォイツェック」とヘルベルト・ブレヒトの「ファッツアー」がある。
ビューヒナーは昨年生誕200年だったので、予想以上に「ヴォイツェック」が演じられた。中には商業演劇の音楽劇もあったし、私の観たフィジカル・パフォーマンスのものもあった。
元々オペラの「ヴォツェック」は人気演目のひとつだからそれほど驚くべき話ではないのかもしれない。
ブレヒトの「ファッツアー」に関しては雑誌『舞台芸術』の2014年春号に脚本が掲載された。未完であるので、シーンの順番さえ不明だと言う事を知った。ハイナ・ミュラーの「見解」なども大きな要素になったようだった。
「ファッツアー」は京都の劇団「地点」で演じられ、それが先日某テレビ局で放送されたのだ。
歌舞伎や、オペラや、文楽と違って「演劇」のテレビ化は実に難しい。
だからテレビで観た「ファッツアー」をそのまま受け取れないとは思うのだが、役者の熱量や演出の奇抜さ、音楽(「空間現代」というバンドの生演奏)の「断裂感」(音楽が役者のセリフを分断する)などあまり体験の無い芝居空間だった。
知人が京都まで「ファッツアー」を観に行っていて、そのプログラムを持っていた。
その中に演出の三浦基氏の次の言葉があった。
「アナーキズムを通して国をつくる場が劇場だとすれば、最高だと思っている」
また、制作協力の平田栄一朗氏の言葉もあった。
「「最初からすべてが終わっている」というメランコリックなモチーフは、三浦雅士氏が『メランコリーの水脈』で指摘したように戦後日本文学では豊かな創造に結びついた。
アベノミクスの予想された失敗を前提とし「すると、私たちが生きる世界は時代や具体的な状況は異なるが『ファッツアー』のそれとほとんど差がないことが見えてくる。
戯曲そのものは難解で矛盾だらけだが、戯曲と私たちの現実をつなぐこの紐帯だけは揺るぎないもののように思えてならない」
ますます「ファッツアー」が観たくなった。