映画『運動靴と赤い金魚』 過去ログ転載 | leraのブログ

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運動靴と赤い金魚 99.8.5鑑賞







イスラム原理主義の国イランでは表現規制が厳しい。ところが子供が出てくる映画に関しては鷹揚のようで、結果的に子供が出てくる映画が多い。それは必然的に子供と社会の関わりを描くことになる。  監督のマジッド・マジディもインタビューに答えてこう言っている。 「どの社会でも持つ持たないはいつも問題で多くの争いを生む。現在、我々の社会が抱えている最大の問題がそれだ。経済的不平等と社会正義の欠如から、我々は足元がぐらついている。そうした問題がある限り、それを糾弾していくのが、芸術の使命だ。」




 映画は貧しい小学生の兄妹の話である。兄が修理が終った妹の靴を受取に行くが、八百屋の店先に置いていたところ廃品回収業者に持ち去られてしまう。兄は家に帰り妹に事情を説明するが、妹は納得できない。靴がないと学校に行けないのだ。兄は自分が使わずにとっておいた1本の鉛筆を妹にやり、自分が履いている靴を一緒に使おうと提案する。




 その家は母が病気で、父(トルコ系と表現されている)の収入は少ない。大家に家賃を何ヶ月も溜め、何度も催促されている。兄と妹は両親に靴を買ってくれとは一言も言わない。「家には靴を買うお金なんかない」と二人で納得する。その台詞は聞く者の胸を苦しくする。




 イランの学校では、女の子は午前、男の子は午後と分かれている。妹はブカブカの運動靴を履いて学校に行き、帰りは一目散に走って帰る。走らなければ兄が遅刻してしまうのだ。カメラは延々と一生懸命走る妹を執拗に追う。途中までサンダル(おそらくサンダルでの登校は禁止されているのであろう)で来ている兄と急いで履物を交換し、今度は兄が一目散に走る。それでも時として兄は遅刻してしまい、管理者に叱責されるが、靴の事情を話すことはない。




 妹の朝礼のシーンがある。国旗がはためく校庭で「私たちは国の花」「私たちは指導者に従います」とシュプレヒコールをする。その中で失った自分の靴を履いている下級生を発見する。下校時その子の後をつけ家をつきとめ、兄とともに再度訪れる。兄妹がその家の出入り口が見える所で様子をうかがっていると、そこからその子と父親が出てくる。その子の父親は盲目で物乞いを業にしている。兄妹は何も言えずに引き返す。




 兄妹の父はたいへん真面目な労働者で、コーランの詠唱に涙し宗教的な集会に集まる人達の世話も厭わない信心深い人でもある。父は友人に聞いて庭仕事のアルバイトをしようとする。庭仕事の道具を借りて、兄を連れ邸宅街を自転車でまわるのだ。その邸宅街は目を見張るような豪邸が並んでいて、駐車している車もヨーロッパ製のものばかりである。慣れないインターホーンで恐怖を感じたり、犬に吠えられたりしながら一軒一軒回って行く。その中で一軒の家だけが扉を開けてくれて、仕事を依頼してくれる。庭にプールもあれば公園にあるような遊具もある豪邸である。仕事を終え想像以上の報酬を得るが、帰路自転車を壊してしまい、その報酬によって妹の靴を買う事はできなくなる。




 マラソンの大きな大会があり、それにエントリーした生徒達の練習を見ている兄がいる。家の手伝いをしなければならない彼は参加できないのだ。エントリーした生徒達の合格発表があり、そこで大会の賞品が発表される。3位が運動靴なのだ。兄はすでに参加希望を締め切ったと言ってしぶる先生に涙を流して参加を執拗に乞う。その執拗さと強引さは彼のルサンチマンを表現しているようで実に苦しい。結局あまりの勢いに先生は彼のタイムをとることとし、結果的に参加できることとなる。




 彼は妹に約束する。賞品の運動靴は新品だから女の子の靴と交換できるはずだと、約束する。




 マラソン大会の当日が来る。各地から選抜された子供たちが集まってくる。裕福な地域からの子供達もいて、彼らはランニングシューズを履き、新しいスポーツウェアを着ている。




 レースが始まる。兄は順位を気にしながら走る。1位でも2位でも4位以下でもだめなのだ。3位でなければならないのだ。走っている兄の姿に、一生懸命走って学校から帰ってくる幼い妹の姿をオーバーラップさせる。カメラは「走り続けなければならない運命」を暗示するように、走りつづける兄と妹を延々と追う。さらにそのカメラは固定ではなく一緒に移動し続けるのだ。




 ゴール直前の混戦から兄は1位になってしまう。1位の賞品はキャンプ旅行である。表彰式で彼はうなだれる。けして顔をあげようとしない。




 レースを終え家に帰る。無言で迎える妹、無言の兄。全てを悟ったように立ち去る妹。兄は靴を脱ぐ。二人で交代で使っていた靴はマラソンで走ったために底が抜け、もう使えるものではなくなっている。豆ができて傷ついた足を集合住宅の中庭にある池に浸す。すると赤い金魚がそっと寄ってくる。映画はそこで終る。




 常にコーランの詠唱が響き、マホメットの教えが至上で、国旗の下で忠誠を誓わされる国に対する持つ者と持たざる者の矛盾に対する大いなるアンチテーゼである。ヒントはプロローグのタイトルバックにもある。妹の使い古した靴を修理する職人の作業する手が淡々と映し出されるのだ。そこにあるのは労働であり、労働者であり、その労働を必要としている人々の存在である。




 マルクスは宗教は「阿片」だと言った。「宗教」は、抑圧者が被抑圧者の不満を拡散する目的で、道徳観や土着的な先祖崇拝にからめた支配装置だからだ。豪邸街と走る兄妹、一本の鉛筆と高級な外車、インターホンのある門扉と盲目の父親が住む家の戸、その対比の意味するところは単に宗教に対する疑義ではなく、力や発言力のある人々や大人が作っている国や社会に対する疑義なのだ。




 観客の中には笑う人が何人かいた。マラソンで1位になってしまった場面や、妹が自分の靴を履いている生徒を見つける場面などでだ。私には笑えなかったし、監督の意図が滑稽なシーンに計算されていたとも思えない。しかし、私は笑っている観客を批判する気持ちはない。




 映画は「なにを撮るかではなく」「どう撮るか」である。だから映画によって観る側がテーマを持たされる。そしてそのテーマによって、自分の行動と思想を問われる。それはある意味で辛いことだ。「映画の楽しみ」を根底から問われるからである。




 山上の垂訓でイエスが「貧しき人は幸いである」と言ったのを「貧しい心の人は…」と書き換えたように、無邪気な子供の行為とみなして笑う事も許されるとは思う。それは問われたくないという意志表示なのだろうから。




 私はこの兄妹がストリートチルドレンにならないことを、シンナーや薬物に依存しないことを、性的な搾取を受けないことを、犯罪を犯すことあるいは犯罪に巻き込まれる事がないように願ってしまった。実は「イランの子供の映画」ということで、あるていど予想していたことがあったが、その予想がみごとに的中していたので、少々辛いものがあった。いつも言っている事だが、人の悲しみに触れるには歳をとりすぎているのだ。




 「映画は連想と暗示の表現芸術である」と言ったのは私だが(笑)、この作品には「木靴の木」や「自転車泥棒」といった往年の名作を思い浮かべた人が多くいたであろう。「映画は連続する意志」なのだ…




 この映画はイランで公開されてこそ意味のある映画であり、イランやイスラム圏の貧しい人々が観てこそ意味があるのだろう。被抑圧者が被抑圧者として自覚することで、社会との初めての関わりが生まれるのだから…