被害者の裁判参加とは? 過去ログ転載 | leraのブログ

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被害者の裁判参加とは? 2007年07月25日


「犯罪被害者等の権利利益の保護を図るための刑事訴訟法の一部を改正する法律案」の成立に接して

 このクニの「情」について考えてみると、なんとも不思議な心情になる。浮遊感と言っても過言ではない。つまり、掴み所がないのだ。

 例えば、外国で臓器移植を希望する乳幼児に億単位の募金が集まる。しかし、国外の食糧欠乏地域への支援や国内の野宿労働者(ホームレス)の炊き出し支援に対する募金が容易に集まるかというとそうではない。おそらく、募金者にとっての遠近があるのかもしれない。

 「臓器移植を希望する乳幼児」は近しい存在で、「国外の食糧欠乏地域の子ども」や「野宿労働者」は遠い存在なのだ。これは物理的や距離的な「遠近」ではない。「情の遠近」のようである。

 あきらかにヒトよりいい暮らしをしている犬がいる。マッサージやリラクゼーションや温泉浴を施されているペットたちだ。本人(?)が気に入っているかどうかは別にして、ヒトから言わせればあきらかにヒトより「いい暮らし」をしているように思える。これも「情の遠近」で説明がつくのかもしれない。

 このクニの「情」とはなんなのか…

 冤罪はこの世における最大の不幸だと考える。
 それは冤罪被害者にとっても、犯罪被害者にとっても、またそれぞれの被害者の家族親族にとってもである。この不幸を防ぐ手段は裁判しかない。
 完全な理想論だが、刑事裁判とは裁判所や検察や弁護人が真摯な態度で真相を追究する場だと思いたい。

 冤罪の救援などに関わる活動をしていると、多くの人々が「犯人を求める」心情があることが分かる。冤罪を主張すると、「ならば誰が犯人なのか?」と問われるし、冤罪被害者である被告が控訴すると批判されるし、冤罪が確定すると「だけど犯人だ」と言われる。

 つまり犯人を確定させることの安心感を欲するのである。
 これも「情」なのであろう。この「情」は控訴の批判に結びつき裁判を受ける権利の侵害にもなりかねないたいへん危険な「情」であるということが言えると思う。

 和歌山カレー事件や北陵クリニック事件控訴審では裁判を受ける当然の権利が侵害されたし、光市事件では弁護活動そのものがバッシングされるという今までにない状況があり、それらは「情」がさせたのかもしれない。

 昨今の危険な「情」が目立つ中で、被害者の裁判参加が現実化した(6月20日可決・成立)。
 この制度は裁判員制度の対象となる犯罪の場合に、被害者等から申し出があれば裁判の参加ができるというものである。裁判参加する「被害者」は、検察官の隣に座り、証人尋問と被告人質問をすることができ、求刑に関わることもできるのである。

 私の勘違いなら幸いだが、このシステムは裁判への「情」の導入だと思えてならない。

 その「情」は裁判員や傍聴人や裁判官に作用する可能性が大きい。その「情」が報復感情に転化しないという保証はどこにもない。本来なら冷静な態度で真相の追究を義務付けられている場所が「情」に支配されかねないのだ。それはまた、被告の推定無罪原則を遺棄するものでもあるようだ。

 「被害者」が推定無罪の意識を持って、証人や被告に対峙するとは考え難い。逆に推定無罪原則の上に立って尋問や質問をしなければならないのなら被害者に特別な訓練が必要になるだろう。それは自白事件でも同様であるはずだ。

 多くの冤罪事件に自白があったことは歴史が証明しているし、最近あきらかになった志布志事件や富山冤罪事件でも「自白」があった。これらはどんな場合でも完全な推定無罪原則に立つべきであることを示しているし、痛ましい犠牲を伴なった教訓となるべきはずだ。なぜならこの世の最大の不幸が冤罪であるからだ。

 この制度には付帯私訴制度に近いもの(損害賠償命令申立制度)も折り込まれた。刑事裁判で有罪判決がされた場合、その結果を利用し損害賠償を命じることができるというものだ。これは刑事と民事の連続を意味し、刑事被告人と「被害者」が利害関係人になりうるということを意味し、刑事裁判における「被害者」はその時点ですでに民事の原告であるので、言動の中立性が問われるのである。

 また「被害者」の定義もあいまいであると言う。つまり殺人事件の場合の被害者とは誰なのか?という問題も発生する。また、参加できる被害者や、発言できる被害者の有無によって被害者側に不公平感が生まれる可能性もある。それは「情」の介入の有無による不平等になる。

 被害者裁判参加制度や損害賠償命令申立制度は、死刑制度のあるこのクニであまりに危険ではないだろうか?

 犯罪被害者の救済は本来福祉制度の中で行われるべきであると考えるが、現在の刑事裁判のシステムが犯罪被害者にとって優しいのか?と考えると、けしてそうではないことは自明である。犯罪被害者の無視、不利益さが、今回の「被害者裁判参加制度」をつくる原動力になったのであろうが、それ以前に改善されなければならないこともあるはずだ。

 例えば証拠の全面開示である。犯罪被害者が最も欲していることは「なぜ被害者になったのか?」であり、真相であり真実なのだ。それを知ることが痛手からの回復の第一歩でもあるのだ。裁判所や検察がそれに応えているかというと、そうではないと言う犯罪被害者が多いのではないかと思う。時として被害者が証拠開示請求してもされない場合もあるし、提出した物件が証拠にもならずに「消えてしまう」こともあるからだ。

 また被害者として事情聴取段階からの弁護士支援制度や心のケアをするカウンセラーの存在や身体的損傷に対する保険システムの整備も必要と思われる。

 不完全な、あるいは意図的な情報だけを与えられて検察官の横に座り、被告や証人に対し質問をし、求刑に関与する「被害者」を想像したとき、裁判所による「情のコントロール」という言葉が頭をよぎる。「被害者」の裁判利用にならぬことを切望する。

 裁判の迅速化傾向(03年施行の裁判迅速化法)もある。裁判員制度とともに必要視されているのが「迅速化」であるが、原告の高齢化などが問題になる行政訴訟や国家賠償請求なら理解できるが、刑事裁判は慎重に真相を追求する場である。「迅速化」の意味が見出せない。裁判員制度と被害者裁判参加制度と迅速化傾向が、今後の刑事裁判にどのような影響を与えるかを考えた場合、起訴後の有罪率の異常な高さを含め裁判の「暗黒化」が脳裏に浮かぶのは私だけではないだろう。

 少なくとも冤罪の生産がされないことを思う。裁判員制度と被害者裁判参加制度と迅速化傾向で冤罪が生産されるならば、冤罪の新たな被害者、裁判員と犯罪被害者という、新たな被害者を生むばかりだからだ。裁判員や犯罪被害者が冤罪の生産に加担しないとは誰も断言できないはずである。もし加担してしまったことが分かったら救済は永遠にされないだろう。

 判決を下すのが国家だからだ。

 しかし、冤罪被害者を支援するエネルギーの多くは「情」である。

 「情」が権利が守られていない対象に、あるいは真に救済を求めている対象に向くことを願うばかりである。