マーチングバンドの「音楽を見せる」という行為についての雑感・私論
「音楽を見せる」という行為について考えるには、音楽が具象芸術なのか?抽象芸術なのか?の問題がある。
例えば北方先住民族の音は手拍子である。そして、その代替物としての手持ち太鼓がある。これは肉体から発する音として具象物であろう。
アイヌ民族のムックリ(口琴)は風や雨だれや熊の音を表現する。これも具象物であろう。
アイヌ民族をはじめとした先住民族には歌があり、それが「旋律」を奏で音楽となる。
だから旋律を奏でる音楽が自然の音と乖離しているから具象物ではないという言い方は早計かもしれない。人の歌に和音も旋律もあり、その代替物が旋律楽器になるからだ。(アイヌ民族の男声の発声にホーミーのような和声あるいは倍音のものがある)
これらの問題は現代音楽の中で語られてきただろうし、ドン・チェリーの「ヒューマンミュージック」や高橋悠治のプリペアドピアノ、ジョン・ケイジの「ピアノを叩く」「演奏をしない」などはその解決に向けてのアプローチだったのかもしれない。
アイヌ民族をはじめとした先住民族の場合、それに「踊り」(リムセなど輪踊り)が加わる。(ウポポ、イフンケなど歌だけのものもある)これが一体になって、つまり手拍子と歌と踊りが一体となって初めて
「表現」となるのだ。
つまり旋律とリズムとフィジカルパフォーマンスだ。
その点でマーチングバンドとの関連を思う。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの関係にあるかもしれないが、リムセは仲間内に向かい、といっても誰でも参加できるが、マーチングバンドは外へ、つまり観客に向かって発せられる。(盆踊りは進行方向を向き、輪踊りは円の中心方向を向いている。これらはあきらかに見せる行為ではなく、「仲間」を共感させる行為に思える)
「絶対音楽」についてニーチェやヘーゲルは批判をしたが、特にヘーゲルは言語的要素を持たない(絶対)音楽を批判したのだが、音楽表現と言語表現の外形的優位性の問題かもしれない。
しかし言語表現の脆弱性を音楽で代弁させる手法(?)あるいは努力は、モダンジャズが担ったと言えるのではないか?例えば1950年代以降のモダンジャズに関しては、ナット・ヘントフが言うように「言語表現より表現力がある」ということになる。つまり音楽を前にして「彼が何を言おうとしているか聞く事」という言い方をしている。これはゲーテの思想に近い。
どちらにしろジャズが政治性を持ったのは事実だが、ベートーベンの交響曲の9番も政治性を持っている。政治性を持った音楽は「絶対音楽」ではないのではないか?
これは音楽が経験してきた階級性の問題もある。
モーツァルトは市民に向けて音楽を書いたし、ベートーベンはあきらかに階級性を批判したからだ。
ヘントフの言い方はかなりジョン・コルトレーンを意識した言い方だが、するとフリーフォームはどんな存在だったのかという問題になる。オーネット・コールマンの「フリー」やコルトレーンの「アセンション」は時代的にどのような存在だったのかは未だに結論が出ていないのではないか?
それらを前提とした場合、「音楽を見せる」行為とは何なのか?
音表現を補うモノなのか、音以外のモノが音と合体した全く別個の表現なのか?である。
ただフィジカルパフォーマンスに関しては、先住民族に普遍的であり、「音楽」(音楽の定義をせずに)には元々附帯していたもののようだ。
逆に身体的運動を伴わない音楽表現の方が稀なはずだ。リズムは「踊り」という身体的運動を根源としているからだ。
だから「音楽を見せる」という行為は音楽的行為が元々普遍的に持っている行為なのだ。というより、音楽の根源的なレーゾンデートルでもあるのだ。