ヴォイツェク…その幻視と混沌 戯曲勉強会ビオロッカ公演から
戯曲勉強会ビオロッカBioRoccaが3月13日から16日まで阿佐ヶ谷のART THEATERかもめ座でゲオルク・ビューヒナーの『ヴォイツェク』の公演を行った。
オペラでは人気演目であるこの未完の戯曲を六人でやろうというのである。
オペラを見たことのある人だったらかなりの人数で演じられることを知っていると思う。6人の『ヴォイツェク』では、主人公のヴォイツェクとその内縁の妻のマリー以外が一人何役もこなすのである。しかも衣装を変えるということをせず、せいぜい上着を着脱するぐらいだ。(当劇パンフでいくと14役)そもそもマリー以外の役者の衣装は上着を脱ぐと皆同じだ。これは服装の権力性も表現しているのかもしれない。何の権力も権威も力も持たない下級兵士のボイツェックとアンドレースの二人が上着を持たないからだ。
それを観て思った。
この戯曲に役などないのだ。
ヴォイツェクを取り巻くシチュエーションがあるだけで、それはヴォイツェクとの支配被支配の関係性を表現しているだけなのだ、と。
そしてヴォイツェクには内なる世界がある。
彼はその内なる世界にだけ自分のコトバがある。
それは空っぽの地下から聞こえてくる声だ。
そして転がる首だ。
それは幻であり幻視であるから彼以外には見えないし、聞こえない。
コトバが自己の存在を確認したり、自分の意思の有無を確認するものだとすると、ヴォイツェクがコトバを獲得するところがある。
マリーと湖(舞台では湖とは強調されない、低い位置のイルミネーションがそれを思わせる)にいるときだ。
そのときのヴォイツェクの声は聞くものに恐怖を感じさせる。ヴォイツェクのコトバはこの時の行為の間にしか存在しないのだ。
「マリー、行こうぜ…オレが知るかよ!」
ヴォイツェクは脳内で行われたことを実行に移す。
脳内で抵抗しなかったマリーは激しい抵抗をする。それはヴォイツェクが見てきたマリーと現実のマリーとの大きな乖離を示す。だからこそ「その行為」が止められないのだ。
大尉は確立した地位を示し、それによってヴォイツェクをいたぶる。
ドクトルは研究という盲目的目的を示し、それによってヴォイツェクをいたぶる。
軍楽隊長は富とステイタス(外見をも含んだ)を示し、それによってヴォイツェクをいたぶる。
いたぶることは彼らに快感を提供する。ヴォイツェクの代償は金銭だ。
ヴォイツェクは共感者としてのマリーを失う。ところが元々共感者などではなかったことに気付く。マリーはヴォイツェクによって一時的に仮の支配を受けていただけなのだ。
ヴォイツェクとマリーは差別、貧困、惨めといったことでのみ共感できうる。ユダヤ人であること、(いわゆる)「私生児」であること、ふしだらといわれること、最下層といわれることで…しかしそれは「共感」ではない。なぜならマリーだけは支配層に依存することで脱却できるからだ。最下層の妻という二重の「最下層」の彼女に与えられている「特権」。
そして、快感の逆相として殺意がある。
ヴォイツェクは軍隊と言う暴力装置の中にあって何ら力を持たない。そして、いたぶられ、蔑まれ、マリーを失い、子どもですら解体してしまう(疎外されてしまう…多くの場合子どもは母親の「所有」だからだ)。そして彼は力を求める。それがナイフだ。ナイフのイメージが彼の頭の中でどんどんおおきくなっていく。
その様は映画タクシードライバーを連想させた。
そして暴力が向かう先はひとつしかない。マリーだ。
次に自分の居場所を解体する。
解体だけが現実感を持っているからだ。
失うことだけが身体性を持っているからだ。
軍楽隊長は阿呆の化身である。
阿呆は自ら隊長服を身にまとい、布を詰め込んで性と暴力と支配の根源である筋肉を作る。
ヴォイツェクはその筋肉の一部を剥ぎ取ることに成功するが、ただそれだけだ。階級的支配に抵抗できないのだ。階級的支配は暴力的支配と、あるいは有形力支配と同義語だからだ。
どこにも愛のない世界だ。
ヴォイツェクと連帯の可能性のある人物はアンドレースだけだ。
しかしアンドレースとは連帯できない。彼には地からの声も聞こえなければ、帰営の知らせにすぐに帰ろうとする兵士だからだ。疎外されている者同士はけして連帯できない仕組みになっている。
もし連帯できたとしたら何ができる?
叛乱か?革命か?
阿呆のエピソードに象徴されるように子どもだけが「生き残る」のである。
解体された後に進化の馬の頭に内臓されるから…
