劇団ダダン外語祭公演『ガラスの動物園』
―自己、他者、無縁―
この戯曲のひとつのテーマは、失われた青春の光の無残さ、だと思う。
ならば、青春とはなにか?これは青春という言葉である必要は全くないのだが、最も曖昧であるが故に使いやすい言葉である。
学校を卒業する、あるいはある程度年齢を重ねる。すると人生のステージのなかで今まで知らなかったステージに入らざるを得ない場合がある。そこに入ると二度と元には戻れない。
その新しいステージは他者社会なのだ。
他者社会を新しいとするなら、青春のステージは旧ステージとなる。
旧ステージは自己界だ。自分の流儀で、自分なりに、自分で光を発することができる。
他者社会は違う。
自分という属性を持つ他者関係の規定の中で形成される。そのシステムの中で光が生まれる。
ジム・オコナーはハイスクール時代は自分で大いなる光を発することのできた人間であった。自己界で自己実現できる個体だったのだ。
アマンダの若い時もそうである。
今回の演出では、ジムとローラのハイスクール時代の会話が大胆にカットされている。だからジムの失われた光を感じることはあまりできない。
よって、アマンダの失われた光が焦点になる。
ローラはどうだろう。
自己界でも、他者社会でも光を発することのできない個体であった。
彼女はガラスの動物一体一体と会話をし、その気持を汲み取れる。彼女が居るのは無縁社会なのだ。人間と無縁なのではない、自己界や他者社会と無縁なのだ。
無縁社会では光は失われない。
ジムの光は残っており、アマンダの光は抑圧され強制のエンジンとなる光として残っている。
ユニコーンは自己界から他者社会へとスムーズに移行できた稀有な存在なのだ。そしてローラの無縁社会からも解放されたのだ。
アマンダが客席側を向き、ローラが逆を向き会話をするという演出は、舞台空間を度外視し、二人が異なる社会にいて相容れることがない関係であることを示しているように思えぞくっとした。
演出に一癖も二癖もある舞台だった。
ビデオを用いる演出があった。
北村想氏の戯曲『火の日の事件』を連想した。
その戯曲ではスクリーンの自分と対話するのだ。
当劇では、スクリーンにジムとローラが映っていて、二人の会話が続く、そして幻想的なダンスのシーンが入る。
そのスクリーンを舞台の三人(ローラ、アマンダ、トム)が見ているのである。トムは苦悩の表情を浮かべているのだ。だから北村戯曲を連想したのだ。
窓外からは外語祭イベントのバンド演奏が洩れ聞こえ、それこそ自己社会の青春の光だ。
原作では向かいのダンスホールの音楽が聞こえてくる。そこにあるのは「楽しさ」だけである。なぜなら「楽しさ」だけを演出しているのだから。
その中で演じられるアマンダの鬼気迫る情動、つまり全ては「上手くいくために為される」。その圧倒的な力に圧迫される舞台。
作曲も演奏もオリジナルという意欲作。
そして、最後に舞台を占めるのは、「演出家」であり、狂言回しであり、「モノローグを言う人」であるトムの、棄てるべきであるのに棄てられない無残さだ。
余談
私は、楽しかるべき外語祭にこの戯曲をぶつける面白さを思った。
外語祭の楽しさが現実なら、戯曲の辛さは幻想だし、外語祭の楽しさが幻想なら、戯曲の辛さが現実、といったことが体感できるのではないかと思ったからだ。さらにたった二台の照明というやりきれない暗さの中で、少人数の観客の中で演じられる『ガラスの…』にも魅力を感じた。数歩あるけば煌びやかな語劇が演じられているのだ。
場所は最も奥まった普通の教室である。バックステージも楽屋もない。
楽日は四十人着席三十人立ち見ということになってしまった。
そして「楽しいものを求めて」動物園という言葉に魅かれて来る子どもたちもいて、「深刻な劇である」ことをお母さんに説明する役回りを得てしまった。
つまり芝居はその舞台だけで行われるのではなく、それがある環境、それを知る人の心情、そういったものの中で人の関心を集めたりあるいは全く集めなかったりしたなかで「行為」されるものなのだ。