日は、また昇る
人は必ずふたつの「世界」を持つ。なぜならひとつの世界からもうひとつの世界を見ることによって、自分が「在る」ことを確認できるからだ。このふたつの世界は融合、統合を許されない対立的な世界なのだ。
しかし、「在る」ことを確認することは、意識の存在を確認することでしかない。
有機体としての身体的確認はできない。生の実感は得られない。しかし自分が、このふたつの世界のどちらに「在る」かはわからない。「在る」自分を見る自分がいるだけだ。
だからこのふたつの世界は「設定」だけなのかもしれない。
外界は意識の存在を確認しようとする個体に働きかける。その意図はコミュニティーへの幻想と同化である。それは、外界が、バーチャルであろうとなかろうと、その個体にとって、あるひとつの具象的存在となるからである。時として唯一の外界が家族であったりする。あるいはそれも家族という「設定」だけなのかもしれないが。
外界への抵抗やコミュニティー幻想がチープな「国家」に表象されるとしても、その壁はいとも簡単に無造作に破られる。
しかし、外界は意識を刺激するため、意識が有機体から遊離する場合がある。その時人は迷走する。なぜなら意識は常に有機体に対し優位に立つからだ。
ところが、それは根本的な齟齬を有している。
意識は生命体の基層の上にだけ立脚できるからだ。その不安定な関係は、ふたつの世界、そしてふたつの世界によって「在る」はずの自分をも不安定にし、不明確にする。その現象的不確定性に人は耐えられない。その痛苦に耐えるには夢遊という鎧をまとわねばならない。よって人は夢の中で呻吟しのたうちまわる。
悲しい性は救いを求める。
「家族」はトビと名乗ることで、「飛ぶ」ことを暗示している。「家族」はどんなコミュニティーを形成している(た)のだろうか?彼女・彼らの疑問は深い。
彼女・彼らはチーム名で、チーム編成で、自らの存在意義、個々の役割で準備不足を露呈する。役探しだけの役者にしかすぎない。ところが目的が明確すぎる。「飛ぶ」か「飛ばせる」か、それしかない。
実は準備不足なのではなく、目的が明確すぎるために、「設定」は二の次であることがわかる。あるいは多くの「設定」の失敗が準備への情熱を削いでしまったのかもしれない。
その合一目的的な努力は滑稽であるがためにたいへん悲しい。
大変スリルに富む。一緒に飛ぶのか?飛ばせるのか?自分たちだけで飛ぶのか…
レッドが決意し、想い出に紙ヒコーキを持ち、自分たちだけで飛ぶことを決意した時、哀切が胸に迫った。そして、彼女・彼らは三人だけで、レンジャーチームだけで、ある諦念観をもって飛んだ。飛ぶとき、躊躇を全く見せなかった。彼女・彼らの達観が実に悲しかった。
しかも、彼女・彼らは嬉々として飛ぶのである。飛ぶことによって、何か素晴らしい行為の代替だと言わんばかりに、その犠牲の大きさが美化に比例するかのように…その哀しみを舞台の中でどう解体するのかを興味を持って見ていた。
あるいはその哀しみを残された唯一のキャラクターである翔にどう意味付けされるのかを…どうやら、それは、私(たち)に投企されたようだ。
なぜ「日はまた昇る」なのだろう…死んだら個体の個人的感情や環境は別にして、その者にとって日はまた昇らないのだが…ある意味、自殺は個人的に太陽の運行を停止させる所作だろうから…しかしまたそれも
「設定」なのかもしれない。太陽のないもうひとつの世界があるかもしれないし…
*************************************
前公演に続き本の良さを感じたし、演者のうまさも目立った。「JK、メイド、ガリ勉」「おしい、ジラフ、ディー」の対比が劇作的に巧みで、翔のとまどいが伝わってきた。観客は翔と一体化し、飛ぶのか?飛ばないのか?の逡巡の中で哀しみを共有する。その選択強制はシリアスなため少々辛かったが…
劇団ダダン2009年度第二回本公演
「日は、また昇る」
演出 伊田優志
脚本 あんとん
2009.12.18-20
************************************
「日は、また昇る」の公演は初日第一回と千秋楽最終回を観たのだが、印象が全く違ってしまったのだ。
この発言以前にある劇評は「初日」のものである。
全く違ったと言っても、舞台やセリフが変わったわけではない。私の理解度が違ったのだ。
千秋楽最終回公演についても書きたいと思っている。