この本が私にとってたいへん刺激的だったのは長年の疑問に答えてくれたからだ。
江戸時代の衆道や陰間、あるいは戦国時代の稚児(少年)愛に関して、私か疑問だったのは多くの者が女性とも情交し、婚姻し、子どもまで作っているからである。バイセクシュアルなのかとも思った。
その疑問はこの本によって解ける。
本書では衆道・陰間・稚児愛を仮に(あくまで仮に)「ホモ」と呼び、「ゲイ」とは完全に違う物としているからだ。そして「ホモ」は男色であり、「ゲイ」とは違うことを示している。
つまり男色は
「成人前の男性と、成人した男性との間の、対等ではない関係」
だと言う。
対等ではないということは、能動的と受動的に完全に役割が分かれていた、ということだ。そしてプラトンが『饗宴』の中で述べているそれも「男色」であると言う。
つまり歴史的には「ホモ」が許容されてきたが、「ゲイ」は近代に新しく登場したものである。それは1960年代の公民権運動の中で台頭してきたムーブメントのひとつで、フェミニズムと同時期である。
つまり、上下の年齢の秩序の中にあった男色といわれたホモは、近代の自由と平等を背景にして年齢、地位、教育程度の似通った二人の男性同士が人間的つながりを求めて性的にも解放された。成年男性同士のセックスが、友情や知的刺激と渾然一体となるような高貴な関係として人々の前にあらわれた。(p.80)
なぜ「ホモ」に寛容であったのに、「ゲイ」は激しく排斥されたのか?
「ゲイ」は既存の社会秩序を無視したからだ。
それは「ゲイ」が産声を上げる前の性愛関係は、成人男性を中心にして社会的な劣位にある者に対する性的関係があるだけ。劣位者とは若年男性と女性。
フーコーが言うように、性愛に関しては能動性と受動性の間の分割線が敷かれており、男女という性別のあいだに敷かれていたのではなかった。
つまり「ホモ」の場合は、挿入する方とされる方がはっきりと分かれていた。
ゲイバッシングは「横並び」という精神性を取り締まれないため、行為としてのセックスを取り締りの対象にしたにすぎないと指摘している。
そして女性の(ゲイではなく)「ホモ」が極めて少ないことを男性支配の社会構造に求めている。
また、性が女と男の二種しかないということを肯定したから、異性装者やドラァグクイーンが登場するという。そして、異性装者は社会の価値観と衝突しないためゲイのように弾圧を受けない。
テレビを見ていても異性装者はよく見かけるのは事実である。レズビアン公言者、ゲイ公言者はほとんど見かけないことからもその弾圧の大きさは実感できる。
関連事件として1969年6月28日ニューヨークでの「ストーンウォールの反乱」があげられている。

