映画ファンに毒づく…そして再現性の宿命 | leraのブログ

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映画ファンに毒づく…そして再現性の宿命

 あるイベントの忘年会でH大学3年の女性を紹介された。そのイベントが初老の男性と若い女性というなんとも融和困難な人員構成だったために、コーディネーターが気を遣って「映画ファン」の女性を映画に詳しい私に紹介した形になった。

 確かに私は年に映画を100本以上は観る。(近年最も多かったのは2009年の216)しかし映画ファンという人と話しが合ったためしがない。なぜなら私はロードショーを観ない主義だからだ。

 やはりその女性はロードショー中心で、スター主義(対義語は作品主義)的作品が主だった。

 会の冒頭、男性同士で「年寄りの説教はみっともないからやめよう」と意思統一していたので、「そうですか」「いいですね」などと対応していたのだが結果として毒づくことになってしまった。

「革命でも戦争でもスパイしていても、恋愛関係が生まれセックスまでしちゃうってのは器用」とか

「余命宣告うけたのでなければ、焦ってすぐDVDになったりテレビでやったりするロードショーを観なくてもいい。この時に観ておかないと一生出会えないような作品こそ見るべき」とか

「だいたいおもしろさを求めることが間違い。この世の鏡だから不愉快なもの」

 彼女がまるでシーラカンスを見るように関心を示したのと、お酒のせいで大言壮語おっと変換ミス虚言妄語してしまい、後で自己嫌悪に陥った次第。

 話は続く。

 今年映画マニア界上半期の話題というとベルトリッチ「分身」とファスビンダー「ベルリン アレクサンダー広場」の上映である。

 「ベルリン アレクサンダー広場」は14パート全15時間であるが、それを3週間で行うというもので、316日から始まった。

 私が入場整理券を持って並んでいると若い女性から声をかけられた。私の知らない人だ。その人は私を知っているが、名前は知らないと言う。新手のキャッチ?ヘンだな、ヘンだなと思いつつ話を探っていくと、先に書いた私が毒づいた女性であった。「あらら、来てしまったのね」と思った。

 ただこの上映会は確かに珍しいがDVD・ブルーレイの発売記念だから、ディスクで「いつでも観られる」作品なのだ。発売は3月末。

 チケットを確認すると彼女も一日通し11時間分のチケットで私と同じ。

 開場し整理券番号が早い私が先に入り座っていると、なんと私を探して近づいてくるではないか!私は映画は絶対一人で観る主義。そういえば映画へは一人で行ったことが無いという女性は多いと聞く。

 映画が終わりゆっくり外に出ると、今度は出口で待ってるではないか!私は努めて優しくこう言った。

「私は映画は一人で観る主義で、特に終わったあとは人と話したくないので、ごめんね」

 可哀想な気もしたが、これは譲れない矜持である。極めて稀に配偶者と一緒に映画館に入ることがあるが、席は別だし帰りも別なことがある。特に終わったあとは感想をまとめるためにも一人の時間は重要だ。

 「ベルリン アレクサンダー広場」はやはり人を集めていたし、若い女性の一人客も多い。昨今は大学で映画を取り上げる講義が多く、参考としてあるいは資料的なものとして観に来る若い女性が増えていると聞く。シネマヴェーラでにっかつロマンポルノの特集をやった時、若い女性の一人客を随分みかけた。

 彼女もそのうち、一人で来ることがフツーになるであろう。ただ私はその世界に入ることを勧めたことはないと強調しておく。

 余談 マニアの実態

 言葉

「今週コレ観ておくと来週楽なんだが」

「映画観ないヒマなのんびりした時間ほしいね」(フツーの人はヒマな時に映画をみる)

 行動

 毎回映画館に二個弁当持参する人もいるし、映画館用のスリッパを持参している女性も知っている。

 ミニコミ「名画座カンペ」では効率的な映画館間の移動方法が載っている。手書きだったが最近ワープロに進化した。

 よく見かける人もいる。快楽亭ブラック氏などもそのひとり。特に日活作品でおみかけする。

 余談終了

 ところが話の本題はこれからなのである。

 ロードショー映画ファンとは話しが合わないと書いた。だったら同好マニアとだったら合うのか?というとやはり合わない。成瀬巳喜男監督が好きだという妙齢の女性と話したことがある。(ここでいう妙齢とは若くはないので人生の機微を知った付き合いやすい年代という意味)ところが話しが合わない。あるシーンについての印象や解釈が違いすぎるのである。その違いが「許せない」違いに思うのだ。

 しかし演劇ファンや歌舞伎ファンとはよく話しをするし、話が合う。歌舞伎に行くと隣り合った人と話すのは普通だ。アマチュア演劇ファンの場合は、とんでもない偶然を発見したり、貴重な情報を収集したりできる。アマチュア演劇ファンの場合は、ファンがファンを呼び輪がどんどん大きくなることは珍しくない。

 ところが、映画では絶対に無い。

 それはなぜだろう?

 色々考えてみると、映画の再現性に理由があるような気がする。つまりひとつの映画作品を何度か観る。好きな作品だと特定のシーンを繰り返し見たりする。するとその映画に対する絶対的な印象が形成される。

 演劇は違う。再現性がない。また座った場所でも全く違う。だから絶対的な印象は発生せず、その時の自分だけの印象があるだけだ。

 印象の違いに対する寛容さが舞台ファンあるいは舞台マニア同士の会話を成立させるのだろう。

 かつて(ジャズ喫茶世代の)ジャズファンがよくケンカすることも知られている。これはレコード(CD)の再現性に問題があるのかもしれない。しかしレコード(CD)の再現性はライヴあっての再現性であり、「ライヴ」の存在しない映画とは基本的に異なる。映画こそ「純化された再現性」といえるかもしれない。その時点でかなり特殊であることが分かる。

 ネットでの炎上も無関係ではないかもしれない。消える言葉と、再現性のある書き込みとの違いだ。 

 そういえば歌舞伎や演劇やコンサートは配偶者と喜んで並んで座る。「ハレ」なんかと関係あり?確かに以前は歌舞伎や能が「お見合い」に使われた。映画でお見合いする人はいないだろうし、私としてはアベックで映画に行くことも想像できない。(自白するとかつてガールフレンドと映画に行った誰にも言えない過去の汚点はある。映画が終わった後に彼女と、性産業の搾取について話をしたり、ルワンダの政治状況について話しをしたり、それらをしたいとは思わない。いや、待てよ。だからそのためのノーテンキな作品があるのか?なんかひとつ賢くなった)

 すると再現性のある映画や音楽媒体の世界は「異常」の世界なのか?また舞台が「無常」で再現性のあるものは「非無常」…ここまで思い至ると誰かが哲学分野か心理学分野、あるいは社会学で長大な論文を書いてそうだ。

 毒づいた彼女に感謝したい。

 また、古今亭志ん朝は生前録音を残すことをいやがっていたが、再現性に対する非現実感を思っていたのだろうか?

備考:その女性もこれを読んでいる。