慶應劇研3月公演『希わくは誰の為』(こいねがいわくは)
プロローグで仮面をつけたコロス風のキャストが4人出てきてモノローグ(シュプレヒコール)を発する。内容は劇以前にあった戦争についてである。
まずここでひっかかってしまった。
それは仮面と仮面の色が白だということである。
仮面は演劇の文法で行くと
―personaとして「人格person」の条件となる。これは人間は素の状態では関係性を築きえないという感覚の発露」―(S.I氏 「Medeia劇評」より引用)
であり、まさしく人格であるのだから、その人格を探る作業が与えられる。それに仮面が白なのである。舞台美術の杉山至が舞台における「白」と「赤」の意味性について述べているが(注1)、色として特別の意味を持つのだ。確かに鮮烈であるし、歌舞伎の白塗りや死装束など特別な意味を持つ。
その4人のキャストが今度は同じ衣装で「直面」(ひためん)で出てくる。当然仮面の人格が上位になると思うので、「憑依問題」が起こりこれは混乱をずっと引きずることになる。
星の光の害毒、その薬に習慣性があること、外部と遮断された世界であること、そんな舞台の終末観の中で再び白の仮面をつけたキャストがコロス風に出てきて「自分史」を語り出す。
それは舞台の「今」が資本主義社会あるいは個人主義社会のメタファーと思える。
仮面による「ギリシャ・ローマ仮面劇」の文法が底流にあり、舞台はその上に築かれたものなのかという思考作業を強いられる中で、今度は「習慣性のある薬」を無償供給している「行商人」がある女性と再会したくてそんな世界を作ったという。その女性は彼からは「マリア」と呼ばれる。それ以前にヒトが絶滅した後の話しで「アダム・イブ」「イザナギ・イザナミ」がセリフとして登場しているので、今度は創世期メタファーを探る作業を与えられる。
「外」から来たという女性と行商人の存在はサイバーパンクをも連想されるのである。さらに塔に入ることにより「神になる」ことができる。行商人は「アダムとイブになって新しい世界をつくれ」というセリフも言っているので、メタ創世期の可能性も感じるのである。
他者干渉をいやがっていた者も、結局は人が好きだという着地点は多重プロットの中ではやや安易かもしれない。
ファンタジーのように、「別の世界を作ることの難しさ」なのだと思う。
それはあたかも「時計仕掛けのオレンジ」や「指輪物語」が独自の言語
を提示したようにである。
また、「別の世界を今の人間が演じることの難しさ」なのだと思う。
その別の世界で現在の自分史を語るテーマは評価できるものだが、それを文法とするなら舞台も観客も実存しており、その頭脳の中での「別の世界」を代弁するという世界なのかもしれない。もしそのためだけに仮面が登場したとするのなら混乱を惹起するだけだろう。
この文章を自分で読んでみると批判に読めるが、批判の意図はない。
脚本レベルで検討すべきなのかもしれないが、私がメタファーを理解できないだけの話かもしれない。つまり、現在では仮面も「白」もなんらメタファーになりえないということ。
舞台美術など巧みであったし、劇場スタッフもたいへん好感が持てた。そんなところに先輩たちの「遺産」を感じ、それは学生演劇を愛する者としてはたいへん有意義な時間であった。
2013.3.15-17
脚本・演出:安原佑汰
注1:2012年11月4日第66回東京都高等学校演劇コンクール中央発表会においての講評から。