第66回東京都高等学校演劇コンクール中央発表会 2日目 2012.11.4
『マコトの幸せ』都立目黒高校 都立目黒高校演劇部・顧問作
顧問の熊川先生の本としては『ナイブドア』『ヒューマンリサイクル』を観ている。『ナイブドア』はライブドアのパロディー(今の高校生はライブドア事件は知らないかも)で、ひきこもりの少年をあの手この手で引っ張り出そうとして失敗するブラックユーモア。『ヒューマンリサイクル』リサイクルブームで人間も使える人と使えない人とに分け、使えない人をリサイクルセンターで再教育するという、これもブラックユーモア。
『マコトの幸せ』は退屈している女子高生が1日だけ戻れる時計を入手する。やはりブラックユーモアがあり職業体験で行くスーパーマーケットのハイテンション副店長は「ニート撲滅」を宣言する。
もうひとりの男性社員は平均一(たいらきんいち)で、クレイジーキャッツの植木等のオマージュか?
「あいだみつを」より「せんだみつお」が好き(今の高校生はせんだみつおは知っているのか)とか、スーパーは「ナンカヨーカードー」など熊川ワールド。
退屈を「自分探し病」と定義し、「自分」など無いのだと吐き捨て、自分で自分を幸せにできないと気付かせる。巧みな本。
男優3人のキャラが立っていて、ステージジェネラルシップをとる。ただコント的になりすぎるのはあまり好みではない。
マコト役の向井莉生は素人っぽい愛らしさがあり、テーマも等身大で、いかにも学生演劇と好感を感じる。ただ、60分という時間制限があるためだと思うがモノローグが多く、説明調になったことは惜しい。
東京都高等学校演劇研究会賞受賞。
講評でも内藤美奈子(制作)「本、演出いい」杉山至(舞美)「本、エピソード、セットがていねい」他「小ネタいい、本がいい」と本への評価が高かった。
『ナイブドア』の時は1年生が7名入りかろうじて存続した演劇部が、中央大会に出て、しかも研究会賞まで獲るとは…
『ブンナよ、木からおりてこい』京華学園 水上勉作、小松幹生脚色、伊藤弘成潤色
2度目であり、前から4列目で観たが前回よりはるかに舞台に近いところで観る。そして気付いたのは多くの演者が複数役を持っているということ。場当たり大変だなぁと思う。
スッポンをどうするかと思っていたが、やはり設けなかった。スッポン効果は階段状客席の方が効果が大きい。1回目の時、土中に隠れているブンナを追い出す目的で蛇がスッポンから潜るようにハケ、もうひとつのスッポンから出てきた時の効果は大きい。ただし講堂のような平面客席では後方の客は見えないのでは。しかし、今回はちゃんとした小屋(東京芸術劇場プレイハウス)のためスッポンは無かったものの、照明効果は美しかった。
今回はモズの個性も伝わってきた。スズメは時に弱く時に狡猾でなかなか難しい役どころを表情の演技で好演していた。舞台を引き締めるのは蛇(佐々木真菜)で、登場すると空気が一変する。動き(足さばき)、セリフ、表情すべていいのだ。衣装(打掛に袴)を含め「葵上」を連想させる演出かと思ったが、公演後役者に尋ねると「葵上」は参考にしなかったとのこと。演出にはアイデアがあったかもしれない。
スズメ、ネズミが舞台を作っていく。ネズミは生というものを定義しようとする行為、それが切なく観客に響く。
それにしてもブンナ役の加藤結夏が達者。土に隠れているシーンを舞台上で演じるのだが、セリフがなく表情と少しの動きだけで恐怖や驚きを表現するのだが、なかなかできるものではない。惜しむらくはスズメや蛇の舞台と同じ視界に入らないこと。交互に見ることになるので、どちらかを見逃す。後ろの席で見れば同一視界で見えるのかもしれない。この辺を舞美で左右軸から上下軸で表現できると最高だと思う。
虫を表すシャボン玉が小屋の関係で使えず、黄色の紙を飛ばした。シャボン玉は上に飛んでいくし、それをブンナが手でつかみ口にするのでその方が良かった。
カエル群も生き生きしていたし「沈黙の春」を告発する老カエルの存在感も大きかった。
この日、5本が上演されたが最も客ウケが良かった。1列から3列までは高校生優先席で、前も後ろも両隣りも高校生だったが、前も後ろも泣いていた。私も胸に迫るものがあった。それはストーリーではなく、テーマでもない。熱演に胸を打たれたのだと思う。
終幕後、周りの観客が言っていた言葉はほとんど同一で「すごい、すごい」という感嘆の声だった。熱演の説得力にはなにものもかなわない。熱演というのは汗をかいて大声を出せばいいものではない。本を読みこみ、刺激し合う相手のセリフを聞き、役との同化あるいは反発、その「場」の理解、セリフの自己化、役者としての自己存在の深化…
講評では相島一之(俳優)「エネルギー充満、生徒のポテンシャル高い」杉山「舞美の作り込みすごい、手抜きがない」他「レベル高い、よくこなしている」とあったのだが、その後は厳しい言葉が続いた。レベルが高いゆえ要求も高くなるのだろう。
あんな熱演に観客として接することができた学生たちは幸せだったと思う。私も長い間アマチュア演劇を観てきて「こんな舞台があるからやめられない」と再度言いたい。(1回目は日比谷高校のクラス演劇で観た『山椒魚だぞ!』横内謙介作を観た時)
聞き取りにくいセリフが皆無の学生演劇としては稀有な舞台。
『桶屋はどうなる』都立東高校 三輪忍作
ほぼ三人だけの舞台で、ゴキブリの姉妹と突然変異の野菜。音楽やセリフのパロディーが満載で、例えば「同情するなら喰ってくれ」はテレビドラマ「家なき子」のパロディーか、あるいは快楽亭ブラックの「苗字なき子」のパロディーか?
セリフのかけあいに淀みがなく、セリフのキャッチボールをしながら動き回るがそれもスムーズ。観客を自分たちの設定したワールドに引き込む。そして生歌(ぼくらはみんな生きている…)によってテーマへと導く。クラリネット1本の演奏もあり緊張感を生む。
ところが引き込まれたはずのワールドは「逆変身」によって崩される。制服に着替えることによって高校生になってしまう。観客はテーマを探すことになる。下手すると夢オチに見えてしまう。
講評で中屋敷法仁(劇作)は「脚本は二項対立から始めるな、多様な解釈があっていい、答えは観客に委ねろ」と言いこの本はキャストが答えを出していないからいいと評した。杉山は「ナカワリを半開きに使い舞台の奥行感を出した」と評価していた。
ラストの「着替え」は評価が分かれた。中屋敷は「一般論に堕ちた」と言い、杉山は「着替えているその時間が演劇の魅力」と評価した。私はパゾリーニの「テオレマ」を連想した。(テオレマとは逆だが…)
これが審査員特別賞を獲得し関東大会へと推薦された。
『ガラスびんの長靴をはいた猫』中央大学杉並高校 シャルル・ペロー原作市堂令作(劇団青い鳥上演台本)
劇団ダダンの『青髭』を観たので、今年シャルル・ペローの作品に接するのは2本目。児童向けが多いので、偶然とはいえ珍しい。
とにかく三匹のネコ(菅野碧、庄司小雪、庄司小萩)がうまい。歌、ダンス、アクション、変顔…ある意味スムーズであるので安心して見られる。ミュージカルコメディとも言えるだろう。狂言回し的家来が出の度に工夫があり「次を期待」させる。これは演劇では重要な要素。その家来役の馬田翔永が舞台監督。電飾(プロジェクター?)を用いた装置もいいし、衣装もいい、鬼の表現も効果的、バレエ的な動きもあり、よく計算された舞台で、公演数が多いのではと思わせた。
三匹のネコがプロに見えたので、閉幕後実物を見に行くと普通の高校生、あたりまえか…演劇の楽しさを伝える作品。
講評では、内藤「メッセージ性がない」という意見もあったが、杉山「楽しい、許せちゃう」他「キレイ、生ピアノ良い、スピード感あり」という意見もあり好評だった。
こういう演劇は多くの人に舞台に目を向けさせる効果があり、好印象だった。ネコ好きにはたまらない?
『耳栓』日本大学第二高校 顧問オリジナル
幕が開く前に赤の上下を着た白塗りの6人が無表情に舞台へり正面に客に向かって座る。幕が開くと赤ちゃんが生まれて幸福な大家族。この夫婦と赤ちゃんと姉が殺される。少年による動機が明確ではない殺人。(パンフでは光市事件が契機になったことが分かる)
その17歳の少年は「幸せに見えたから」と言い、「いいことなど全くなかった」「死のうと思った」と言う。秋葉原事件も連想させる。この心情は特別な事件だけのものではなく、現在の高校生の多くが持つ非肯定感を代弁しているようにも聞こえる。
白塗りの6人が突然動き出す。この殺人事件は劇中劇(というよりエチュード中)でその6人は演劇部のスタッフ。その展開は巧みで舞台に引き込まれる。部員たちは「一生笑う事がないだろう」被害者遺族に思いを馳せ、犯人に死を要求する声、長い裁判、死刑の意味などをセリフ化してゆく。
エア三味線で浄瑠璃(説教節?)を語ったり、能の「野守」(鬼の鏡で地獄まで見せる)を演じたり、ひょっとこのお面をつけた閻魔大王の前で死者がその理不尽さを訴えたり、死者が語る能や仮面劇と言った種々のメタファーがあるように思えるが、こちらが消化しきれない。逆に赤の上下に白塗りの6人が「山海塾」に見えたり、赤い湯文字をまとった大野一雄に見えたりととんでもない方向に誘導されていまい、観客としてもなかなか大変。
生を受けた事が罪、立ち位置で悩む、笑うと命にあぐらをかく、(現実にも対し演劇が)おこがましさを超える勇気を持つ、というセリフがストレートに伝わる。そして死刑への思い。少年が死刑になっても何も変わらない、生きていてはいけないのかという疑問。そして、正面から死刑の意味を問う。
常に舞台上には18人ほどがいるという場当たりが大変な演出。部員間のディスカッションの多さを感じて大変好感を持った。個人的には好きな作品。但しエピローグが合唱だったので、舞台の重さを軽くしてしまい残念。重いまま、調和のないまま、もっと破綻して終わってほしかった。なぜなら実に不愉快なテーマだからだ。
ずっと耳栓をしていて受験勉強をしていた少女が合格を期に耳栓を投げ捨て卒業証書を破り捨て、これからはすべてを見て、すべてを聞き、奈落の底まで見てやる、と宣言する。耳栓をしなければいけない時代がある不幸を告発している。それは思考を許さない時代の不幸だ。
講評、相島「重いテーマ、セリフが伝わってきた、逃げずに戦う姿勢が好き、コロス設定が面白かった」杉山「白塗り、三味線、バッハ、メイキングに戻る、定点や軸で悩む」他「死を覚悟して書いている、エンドがしっくりしない」
死について触れたものが多いと講評した人がいたが、死と死刑は全く次元が違う。死刑は制度であり、人間の生死とは実は無関係なのだ。よって殺された被害者の死と、死刑になる少年の死とは全く別物なのだ。だから彼女彼らは問いを発したのだ。講評者にはその観点をほしかった。
私が見ていない一日目に創価高校の『お江戸の花型裏拍子』という時代劇があったという。私も日比谷高校のクラス演劇で2年にわたり文楽(冥途の飛脚)歌舞伎(新版歌祭文)を演ったときに協力したのでその苦労はわかる。床本からの読み解き、江戸言葉、衣装、頭髪、小道具、大道具(「新版…」の時は駕籠と舟を作った)、音(「冥途…」では生浄瑠璃に生三味線)…大変ではあるがやりがいはある。
創価のものには花魁道中があり、ジャズのダンスがあったと言う。タイトルの裏拍子はそのことか。映画の『鴛鴦歌合戦』(マキノ雅弘監督)を参考にしたとのこと!
講評者のひとりは貧しい農民と花魁の出会いは不自然と指摘した。幾世餅(落語)のようなプロットが必要だったのだろうか?しかし花魁を貸し座敷に呼んだというのなら話は別だが、『籠釣瓶』(歌舞伎)のように江戸見物で吉原に行き花魁道中を見かけるということはあり得るだろう。
是非観たかった。
尚、私は観ていないが関東大会に推薦されたもう一校は都立立川高校『甘い誘惑』。この作品は中央委員会賞も受賞。
全てが私の個人的な感想で記憶を元に書いているので誤謬があると思う。