劇評「ブンナよ、木からおりてこい」京華学園演劇部 | leraのブログ

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

劇評「ブンナよ、木からおりてこい」京華学園演劇部
 高校演劇界で数々の受賞歴があり、顧問も学校演劇界の有名人、是非一度は観たかった舞台。

 アマチュア演劇の面白さは色々ところで述べているので、あえてここでは述べないが、少なくとも完成度を求めるものではない。
 また、学生演劇と学校演劇の違いも明確にしておきたい。学校演劇は少なくとも学校という組織が「公認」した表現であるはずである。よって。学生演劇と学校公認演劇部と学校演劇部とに分類できよう。今回は学校演劇部である。

 ドイツでは演劇に対して政府(国あるいは州)の助成金(入場料、役者、スタッフ等)が出ているが、表現の自由は保たれている。それは演劇が社会を見る目を育てる教育的効果があるからとされているからだ。また表現の事由が保たれているのは、ナチス党独裁の反省に立っているからである。現代ドイツ演劇が舞台表現の中核的であるのはそんな事情からだ。

 今回は水上勉の作品である。
 アマチュア演劇で既製のものを演じるのは、解釈が求められる。既製のモノにどのように自分たちのメッセージをこめるか、あるいはどのようなカタルシスが成しえるか、という問題に直面せざるを得ない。

 舞台はピアソラの音楽が多用される。ピアソラ本人の「自由」といった意味を探ることは、舞台への集中を殺ぐことになると思い無視した。
 学校演劇の特徴である集団劇が展開されるのだが、ひとりひとりの動きが意思がある。キャストがカエルなのでセリフの前に飛び跳ねる。それがけして一様ではなく、セリフの質に連動しているように見える。それぞれが独自のセリフを吐き、もし自分が演出をしていたら、頭がおかしくなってしまうだろうと思わせる。

 また、出が階段状の移動式の踏み台を使い、そこからジャンプして出てくる。かなりの運動量とアクションである。音響も凝っていて天敵のトビの羽音は左後ろから右前に抜ける。

 場転もテンポがいいが、セリフもテンポがよく、かつ熱演。
 ブンナの前に登場する生き物たち、雀もねずみも蛇もそれぞれが大変な熱演。セリフのスピード感にセリフが負けていない。よく「訓練」されている。
 蛇は葵上を思わせ、スッポンからハケ、スッポンから出てくる(舞台の前に仮舞台を設け、その左右に「スッポン」がある)

 蛇が葵上に化した時、大勢が鳴り物を持ってはやし立てる。まるで能舞台のようにだ。その大勢がひとりひとりの表情を持っていて鳴り物を操る。正直言って驚いた。
 学校演劇は多くの演者を作り、それぞれに表情と動きを持たせることが目的なのだと知った。それはけして「コーラス」とは基本的に異なるという視点である。

 変な言い方だが、舞台装置がつくるテンポも感じた。それがとても速いのだ。背景画を変えることによる場転も見事。観客の緊張をとぎれさせない。トビにさらわれる場面も青い板(人が立てる)によって役者を持ち去るがこの工夫もよくできている。空の彼方に消えゆくように見える。それらを扱う黒子もよく統制されている。

 雀は「同じ魂」であるという。
 ネズミは「死ぬことで勝てる」という。
 なぜなら土になり土は多くの命を生むからだ。そして、それは自分だけは救われたいという心情や、自分のかわりの犠牲を求める行為それらを含めて否定できない輪廻(生物学的な表現を用いるならサクセション)であると示唆する。それはある種の「うまれかわり」だと言う。

 自分が死ぬこと、自分の死を回避すること、自分の死のかわりの犠牲者を求めること、それらは輪廻の一部にすぎないのだというメッセージを受け取る。
 しかし、次に来るメッセージは違っていた。
 放射能汚染はその輪廻と相容れないというものだ。

 音響、シュプレヒコール、群舞、照明、各自の本の読み込み、とてもよく訓練された舞台だと思う。それらがマスゲームとの違いだ。
 ブンナ役が声を潰していたことはやや残念だった。
2012.10.27
 京華女子高校講堂にて

 舞美担当者が多種のテープを腰に下げ、足袋に仕事履きを履いていた段階で力量を感じた。