掟破りの「とちり」の「り」で封印切 | leraのブログ

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掟破りの「とちり」の「り」で封印切

 

 私は映画はロードショーは観ない。舞台は最も安い席でしか観ないという戒めを設けている。





 だから歌舞伎は幕見、文楽は三等1500円席、新国立のオペラはZ席1500円だけと決めている。(例外は落語、安い席がない)





 今年その戒めを破る行為をした。


 ヨナス・カウフマンの『ワルキューレ』のビューイング(映画)を4500円の前売券を買ってまで観に行った。





 今晩は本当の掟破り、国立小劇場の文楽の一等席を発売日の朝10時に買ってまで来たのだ。これはいたしかたないだろう、と弁解したい。私の年齢的な問題もあるし、演目が『冥途の飛脚』であるからだ。その前の『傾城阿波鳴門』の三味線が鶴沢清治でもあるからだ。





 席は9列16番。

 「とちり」の「り」である。しかもほぼ中央。文楽廻しがほぼ正面。かつてこの小屋で落語研究会の常連席で月1回志ん朝さんを聴いていた。3回(3年)買い換えて最後は12列まで来たが、今晩は9列なのである。





 『傾城阿波鳴門』は食傷気味だったのだが、清治が出るというので楽しみにしていた。ところが病気休演になってしまった。しかしはじめてストーリーがわかった。





 『冥途の飛脚』に関しては特別な思い入れがある。


 都立H高校の演劇祭であるクラスがこれを人間で演じる時にかなり協力したからだ。床本も何度も読んだし、三味線も貸出しレコードからCDにダビングし音源も提供したし、着物なども提供した。


 その演劇は文楽廻しを作り、浄瑠璃も三味線も生という高校生にしてはたいへん完成度の高い物になった。


 最前列に座っていた女性が涙を流していてもらい泣きしたことが一生の思い出になった。





 「封印切の段」での梅川の出が体をハスにした出で、それだけで苦悩を表現しているような静かで美しい出だった。また、梅川と忠兵衛がもんどりうつようにハケるところは観客を引き込む。





 今日は「新ノ口村の段」ではなく「道行相合かごの段」なのだが、舞台で観るのは初めてだった。孫右衛門が好きなので、しかも本で読むとあまり面白くない段なので軽視していた。今日観て素晴らしく美しいことがわかった。完全に人形遣いは消えてしまう。





 文楽と歌舞伎の違いについて、三宅周太郎が『文楽の研究』の中で以下のようなことを言っている。





 歌舞伎劇は役者が演じたので、舞台上の一刹那である。役者が死ねば消滅する。人形浄瑠璃は人形が演じ人形が残っている。義太夫は語り口、三味線には節づけが残り、節を伝える「朱」が発明されている。





 つまり300年以上の伝統が原型に近い状態で残されているという、かなり稀有な表現芸術なのだ。300年以上前の古典籍を保存することに近いと言えるだろう。





 某大阪市長がこの芸術を支援しないと表明したこと、それは彼の心の貧しさを示す。自分に興味がなくとも多くの客が集まっていることに関心が湧かない精神は実に貧しい。





 「道行相合かごの段」で、みぞれから雪にかわった中で二人がカタチを決め、下座の釣鐘がゴーンとなる、思わず声をかけたくなる。しかし文楽では声をかれることはほとんどない(大阪ではかかるらしい)。





 もし声をかけるとするなら、なんと声をかけるのだろうか?忠兵衛と役名か…人形遣いか…少なくとも人形遣いは口上でも紹介されない「不遇」な存在であるから人形遣いには声をかけないだろう。カタチを決めたのは人形であって太夫ではないから太夫にもかけない…やはりかける対象がいないのか…心情的には人形遣いだろうが、人形遣いは自分の存在を消すことが仕事。かけられたら迷惑だろう。





 30分休憩に歌舞伎座にならって「あずきアイス」を買ったら、「アイス」ではなく「アイスクリーム」だった。





2012年9月14日 国立劇場小劇場 第180回文楽公演

傾城阿波の鳴門 

竹本津駒大夫、豊竹呂勢大夫

鶴澤寛治、鶴澤清治休演により鶴澤藤蔵


吉田文雀、吉田玉也


冥途の飛脚

豊竹咲大夫、豊竹咲甫大夫、豊竹睦大夫、

鶴澤燕三、豊澤富助


吉田和生、桐竹勘十郎、吉田文司