尖閣、竹島、領有権 | leraのブログ

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尖閣、竹島、領有権


 領土問題の解決方法はふたつしかない。戦争か外交交渉である、と内田樹が言っている。厳密に言えば外交交渉の後の戦争もあるし、周恩来(鄧小平?)のように「棚上げ」する知恵もある。





 現在の日本の政治家が「領有権」を主張する場合、そのふたつの帰結のうちの重要なひとつ、つまり「戦争」を視野に入れておかないとバカ丸出しになる。


 あるいはとんでもなくファンタジーに生きているのか?





 日本の場合「戦争」はありえない。なぜなら日米安保条約があるからである。集団的自衛権の行使で米国が中国と「戦争」(この場合宣戦布告がないから国際法上は「戦争」ではないが)することはありえないからだ。(米国自国の脅威に関してはこの限りではない)





 国家とは政治家とはについて考えざるをえない。





 トロツキーは「国家は暴力の上に基礎づけられている」と言った。

 ヴェーバーは「国家とは一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体」と言った。





 日本は物理的暴力を行使しない特異な国家を形成したことを常に念頭におかなければならない。それがいやだったらポツダム宣言の前に戻らねばならない。





 「一定の領域」について中島岳志がトンチャイ・ウィニッチャクンの言葉を引用し地図製作技術について述べている。

・以前は地図が精密ではなかったから境界もあいまいだった。

・地図製作技術の進歩で境界はどこか視覚的につかんだ。

・「地理的身体」(ジオボディー)を獲得した。

 そして、西洋で生まれた「主権国家体制」は「誰のものでもない領域を許さない。





 ヴェーバーは『職業としての政治』でこう言う。

 「政治は権力を追求せざるをえない。政治は倫理ではない。政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は百害あって一利なし」

 「一切の結果に対する責任を一身に受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら「それにもかかわらず」と言い切る自信のある人間だけが政治への「転職」をもつ」





 クォン・ヨンソクは先を見る。

 近代西洋発の国際法の領土は排他的だが、東アジアの海はルーズだった。そこで交易があり、文化が開花した。侵略しないかぎり境界は寛容で多様性を認めていた。

 「島を持ったもの勝ち」ではなく当事国も周辺国も資源を共同開発し成果を分配するような新たな枠組み、ナショナルではなくリージョナル(地域的)な枠組みができないか?東アジアの海はそういうところ。





 吉見俊哉は米国との関係、中国の変化について述べる。

 「日本のみの戦後の豊かさは、日本がアジアの帝国でアメリカは戦後日本の植民地を自陣営に組み込んだ。日本はアメリカと最も仲の良いアジアの国として自らを再定義することでアジアの中心でいられた。

 中国の台頭で地政学的な秩序が変わり、アジアは再び中国中心の時代に戻るし、アメリカも以前のような覇権は維持できない。その中でどうしていいかわからず、中国けしからん、韓国けしからん、と声高に言うことで不安を紛らわせているように見える」





 内田樹もアメリカとの関係を問う。

 「もし領土問題が円満解決し日中韓台の相互理解、相互依存関係が深まると米国抜きの「東アジア共同体」構想が現実味を帯びてくる。それは米国の120年にわたる西太平洋戦略の終焉を意味し、米国としては全力で阻止したいはず」





 領有問題はアメリカ抜きでは語れない。





 我々にできるのはファンタジーの中で生きている政治家を見て笑うことぐらい。





 ヴェーバーはこうも言っている。

 「国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない」

 

 「説教じみた独善」これを政治家が吐き出したら危険信号である。