尖閣など領土問題、そして悲劇と喜劇 | leraのブログ

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私はいわゆる「領土問題」が好きである。




 双方が有利な、そして時として胡散臭い文献を持ち出し「固有」「固有」と主張するからだ。先住民族の存在や国家の継承性(江戸幕府と大日本帝国と日本は同じ国なのか論争)、地理上の特性(波による陸地減少、地殻変動による陸地移動、人工島の創造)など度外視だからだ。




 ただ今回の尖閣問題はやや異質だ。




 所有と領有の違いが分かっていないこともあるが、領土問題の基本的な立ち位置がズレているような気がする。




 現代の領有問題は、安全保障か、資源である。




 資源の場合は領有問題で揉めると長い間その資源が利用できなくなるので、「領土論争」は共同開発論議のテーブルに着くためのスタート位置争いのはずだ。その争いはヨットのスタート位置争いに似ていて面白い。今回のASEANは共同声明が発表できず、やや残念な結果になったが参加国の多くが「スタート位置争い」をしていたように見受けられた。それは「友好国」の「創出」という作業で為される。




 ところが日本の政治家、あるいは某都知事はどうだろう?本当に「固有領土」の主張がしたいように見受けられる。日本の外務省が信じられないぐらい内向きで(ここで言う「内向き」とは「米国向き」を指す)、ASEANで何かしたように全く見えない。尖閣問題で「友好国」を創出しようとしたように見えないという意味である。


 また、もし軍事衝突したら米国が中国につくことは当然である。まさか植民地日本のために莫大な資本投下をしている中国と戦争する利点は皆無だからだ。




 日中友好のシンボルだったパンダ(一時はパンダ外交とも呼ばれた)の子に「センセンとカクカク」と名づけよといった話は、ブラックジョークというよりただただ悲しくなるだけだ。


 よく自民党が「リーダーシップ、リーダーシップ」というが、私はリーダーシップを持つ政治家を危険視している。政治家は市民の正当な行為の邪魔をしなければいいだけの存在である。グローバリズム(無論悪い意味で使っている)が席巻する現代では、「代表制」そのものが意味を失っているからだ。(詳しくは『マルチチュード』下巻p.78以下「<帝国>時代における民主主義の危機」参照)


 昨今、原子力安全保障位置づけ、憲法改正、集団的自衛権、などの言葉が政治家から出てきた。無論財界と官僚の強い要請の結果だが、それが「悲劇」への近道にならなければいいと思う。




 その「悲劇」は戦争の悲劇もあるが、政治家の意味の無い言葉を間にウケ不利益を蒙る市民の「喜劇」の意味でもある。