劇団トレモロ『ひとり、たび』 | leraのブログ

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 劇団「トレモロ」の「旅の作品集」を観た。(2012年3月18日千穐楽)ソーントン・ワイルダー(Thornton Wilder)の「楽しき旅路」とシェークスピアの「リア王」の二本立てだ。


 これについて語るには、まず私とワイルダーの、あるいは「わが町」との不幸な出会いについて述べねばならない。


 今から20年以上も前、『2001年宇宙の旅』をシネラマで上映したテアトル銀座の後に建った「ル・テアトル銀座」という大きな小屋(変な表現?)で山口崇主演の『わが町』を観た。ある人が義理で買わされた一番いい席のチケットが芝居好きの私に回ってきたのだが、その舞台はセリフも分かる、ストーリーも分かる、しかし何を演じたいか分からない、という精神衛生上良くない舞台だった。それはテネシー・ウィリアムスとの対比での問題かもしれなかったが…

 ところが、ワイルダー作品は色々な小屋で、色々な人によって何度も演じられるので、不思議に思った。全くもって言えば私の無知故の話しなのだが…


 今回の舞台は、見続けている役者四家準平が出るというので関心はあったのだが、初日から満席でキャンセル待ちしかないという状況だったので、行きそびれていたのだ。ところが楽日前日にある人の劇評を読んで俄然観たくなったのだ。

 観たくなったというよりワイルダーの克服が出来るように思ったのだ。まさか親の仇ではあるまいし、何も克服する必然は全くないのだが、「世間」が評価しているワイルダー作品のほんの一部でもいいから触れてみたいと思ったし、アマチュア演劇(全員がアマチュアではない)だからこそそのチャンスを与えてくれるように思ったのだ。


 立ち見を覚悟してキャンセル待ちの列に並んだものの、運よく座れた。(立ち見は10人ほどいた)

 ワイルダーの「楽しき旅路」(The Happy Journey to Trenton and Camden)を観た。舞台監督が端役をやったり、道具は何もない舞台で、演劇そのものはよく出来ていたものの、やはりワイルダーが分からない。


 それが終わってから、2本目に入る準備のためかトークショーがあった。トレモロの演出の早坂彩と世田谷シルクのえみりーゆーな(彼女は二本目のリア王のキャスト)の対談だった。その中で、えみりーゆうなはこの芝居に涙すると言い、母親が野の花を嫁いだ娘のために摘もうというセリフに母親の心情を重ねると言った。そして、ワイルダー作品が「何も起こらない」「舞台と客席の区引きをとり払おうとした思想があった」と言った。

 その時、突然開眼した自分がいた。

 劇中の早送り再現シーン(車での旅を再現し、そこに傍観者としてのビューラー=嫁いだ長女がいる)が甦ったのだ。


 私は芸術表現の中でフィクション性に拘ってきたと思う。「何かを撮るのではなく、どう撮るかが映画だ」(テーマを求めるのではなく、そこにテーマを探る)と言ってきたし、近松の虚実皮膜説はフィクションとノンフィクションの境界を曖昧にする論法と言ってきたし、小津の『東京物語』で原節子がまな板に向かうシーンだけで、戦争、未亡人、愛情、喪失感を見事に表現した名シーンだと言ってきた。

 つまり何も起こらないのが人生だし…つまり、生や死や結婚や事故ですら何も起こらないと同じだし、その何も起こらないことに対する個別的心情を表現することに意味があるのだ、と思ってきたはずであった。


 劇中の再現シーンでのビューラーにそれを見たのだ。それは見事に人生を語っていた。彼女の成長、婚姻、別離、大病を見事に表現していたのだ。

 何かを得るために何かを失うのが生きることである。そして、それは強いられる。よって人は最善の喪失を選択しようとするし、それは人の成長の過程であるらしい。ビューラーは母親を抱擁し、もう少しこうしていたいと言う。それは生きることの哀しみ、そしてほんの少しの喪失を、そして子どもでいたかった心情を表現していたように思えたのだ。

 そうなんだ、これがワイルダーなのだと思ったのだ。また、今演劇のタイトル「ひとり、たび」とはビューラーのひとりたびを表現しているのだと思った。


 何も起こらないことが人生であり、それを表現することに意味があることを悟って、対談中に落涙しそうになった。これだからアマチュア演劇はやめられない。舞台を観ることで旅ができるからだ…


 リア王もあまり好きな演劇ではなかった。シェークスピア悲劇の中でもテーマがあまりに直裁だからだ。だから逆に舞台をどう作るのかに興味を持った。

 道具は最小限で、それを役者の動きで代替するという手法は成功していた。それにも増してリア王を演じた四家の迫力には凄まじいものがあった。

 死者を低い位置で存在させ、その表情を見せる演出は秀逸であった。その中で長女を演じた加藤のえるが、まるでサイドストーリーがあるかのようにやけに悲しく見えたのは私だけだったろうか?それとも役者としての彼女の特性か…

 結局リア王の悲劇とは、何の、どの悲劇なのだろうか?これは私がワイルダーの本に感じていた「分らない」と同じ心情であり、私の無知によってワイルダーとリア王がリンクした瞬間でもあった。私はそこに、この二本立ての効果を体現した訳だ。


 ハネた後、演出の早坂彩に二本立ての効果についてたずねた。

 私としては悲劇の間に舞踊をはさんだりする歌舞伎的効果を狙ったのかと思ったからだ。彼女が言うのは、テーマは旅であり、ワイルダーもリア王も旅がテーマだし、Journeyであり、Journeyには人生という意味もある、とのことだった。そして喜劇と悲劇を組み合わせたと言っていた。つまりHappy Journeyは喜劇なのだと言う…やや意外だった。私にとってはビューラーの哀しみが先にたっていたからだ。元々彼女が言うには喜劇と悲劇は表裏一体だというから、意外でもないのかもしれないが…なんだかワイルダー作品を無性に観たくなった。


 私は事前情報を知りたくないので、パンフを前もって読まないのだが、観劇後パンフにある演出の早坂彩の挨拶を読み演出動機などが書かれていて、大変誠意を感じた。

 今後のこの劇団の舞台に注目したい。



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