Komische Oper „Rigoletto“ 劇評
リゴレットの悲劇は、もちろん最愛の娘ジルダの死であるが、それ以上に自分の業にある。人を笑わせ、笑われる公爵づきの道化師は、この喜劇の枠から外へ出ることができない。常に道化師の仮面をかぶっていなければならないのだ。
今回の演出・舞台美術・衣裳・照明はこのコンセプトを徹底的に打ち出していた。観客に向って開かれている床が大変傾斜した箱は、およそオペラの美学からは程遠い作りになっている――コーミッシェ・オーパーの内装の豪華絢爛さがよりこの美学からの逃避を強調しているようで面白い。
舞台の壁紙は地味な色で、無数の皺が寄っているし、下手頭上には目の光った不気味なシンバルをもった猿のおもちゃが置いてある。そしてこの猿のおもちゃは、幕と幕の間にシンバルを鳴らすのだ。
呪いの序曲が終わり幕が開くと、笑った顔をしたかぶりものの仮面をして、直径5、6メートルはあるスカートを履いて拙く踊っている。そしてそのスカートの下からピエロたちが続々と出てくるのである――床に多くのすっぽんがあり、それを効果的に使っていた。
この猥雑さはサーカスや見世物小屋(ドイツにもあるのだろうか? そもそもわたしは行ったことがないけれども。)のそれである。いや、より正確に描写するならば、そうではなくて、勘違いした観客たちがサーカスなり見世物小屋なりを勝手に占拠して乱痴気騒ぎをしているような、無秩序さと頽廃ぶりである。そして主人公リゴレットはこの猥雑で不安定な空間の住人――それどころか冒頭のシーンを観ればわかるように創造主――であり、この空間から抜け出すことができない。そしてこの箱の中で、少女を裸にしたり、誘拐や殺人が行われることになるのである。他にもこの箱の中の猥雑さを支えるモティーフが数多くあったが、枚挙することは割愛させていただきたい。
しかしリゴレットとジルダがこの箱から抜け出すシーンが3幕に用意されている。しかしこの時ジルダはすでに公爵の子を妊娠している。喜劇の中に悲劇を背負った人物がリゴレットならば、ジルダはその父の隣で悲劇を身ごもったのである。そしてジルダは父の言いつけに背き自ら箱の中へ再び戻って行き、公爵の身代わりとして殺される。リゴレットは彼女の死を喜劇で回収しようと、今まで皆がそうしていたように、手品の布をかぶせてひらひらさせるがその布の下ではもちろん何も起きない。彼女の死だけが唯一確実で不可逆なものだからである。そして喜劇に飲み込まれるようにリゴレットはあの笑顔の仮面をかぶり、幕が下りる。
ヴェルディと台本作者のピアーヴェ――そして原作者のヴィクトル・ユゴーも――が当時持っていた王侯貴族へのラディカルな姿勢は、この舞台では美学的なものへのラディカルさとなって受け継がれている。その意味でこれはヴェルディからの逸脱ではなく、正当な継承といえるであろう。
ただ、苦言を呈するならば、上記のラディカルさというのはもはや現代の演劇界やオペラ演出界において何ら真新しいものではないということだ。事実、以上のような分析は観劇とリアルタイムで行うことができたし、次から次へと登場する演出のトリックは観客を驚かせるというよりは、「このコンセプトからすればそうするだろう」と多くの観客を納得させた。
しかし全体としては非常に上手く構成されていて、素晴らしい舞台であったことは間違いない。音楽面は、ジルダ役のアンダースゾンが難役を上手く操りきれていなかった印象。高音に四苦八苦していた。(わたしの前回の『リゴレット』体験がテレビで聴いたディアナ・ダムラウだったから余計そう感じたのかもしれない…)
舟
5. MÄR. 2011
„Rigoletto“
in Komische Oper Berlin
作曲 Giuseppe Verdi
台本 Francesco Maria Piave
ドイツ語訳 Bettine Bartz, Werner Hintze
音楽監修 Patrick Lange
演出 Barrie Kosky
リゴレット Bruno Caproni
ジルダ Karolina Andersson
マントヴァ公爵 Héctor Sandoval 他