教育亡国 映画『月あかりの下で』その2 | leraのブログ

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私は茨木のり子の詩は、たいへん厳しいと思う。

 

 あの詩は「持てる物を使わぬ」自堕落さを糾弾している詩だと思うからだ。少なくともスタートラインに立てる人への詩だ。競争に参加できない、スタートラインに立てない、立つことを許されない子どもたちには意味のない詩なのだ。(茨木自身としては自分に向けた言葉)




 しかし、この詩を読み聞かせた担任教師の心情は分かるような気がする。と言ってもシッタゲキレイなんかではない。自分のことは自分でしか決済できないという原初的なシステムの確認なのだ。自分を大切にしろというメッセージだ。




 生徒の多くは規制を嫌い「自由」を主張する。


 しかしその多くが自虐になっていることを悟らせたかったたかったのかもしれない。その境遇に堕ち入っていない、つまりスタートラインに立てる子どもたちは「ばかもの」ですむ。そうではない子どもたちには、もう「ばかもの」という言葉は意味を失っている。あるいは「ばかもの」と誰も言ってくれない。




 担任教師の哲学は、けして生徒をしからないということだ。


 人は弱い。自らにある程度の権威があり、仕事を全うしようと思ったらしかることが簡単だ。その中で、しからないことに決めた彼はとんでもない人物だ。しかられ慣れした子どもたちに効果がないと言えばそれまでだが、彼らをしかる価値観に自らを置いていないという意志表示は実に爽快だ。成績、内申書、進学で脅迫する環境にはけしてない視点である。




 そんな中で学ぶこと、というより物の道理が分かることの快感を感じる生徒もいる。その存在は、資本主義システムの中で置き忘れて来たことを思い出させてくれる。




 しかし残酷な力も当然用意されている。


 父親のDVで擁護施設に移ることになった女学生が、施設から学校を辞めることを促される。行政にとって無駄な経費なのだろう。




 担任教師は、学内行事で共同作業をするに先立ちジョン・レノンの言葉を引用する。


 「嫌いでもいい、しかし否定しないでほしい」


 これはビートルズがアメリカ公演をした時に反対運動があり(州によってはロックという音楽そのものを禁止したところもある。ベニーグッドマンがアフリカ系の音楽ジャズを始めた頃は悪魔の音楽といわれていた。)それに関し否定することはファンの存在をも否定してしまう危険性を説いたものだ。




 余裕の無い生活と、不器用な心はとかく諍いの原因となる。


 ここ以外で「友だち」は作れないということを知らせる言葉なのだ。



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