教育亡国 映画『月あかりの下で』その1 | leraのブログ

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 日本は教育を必要とする人に教育をしない国である。識字学級や日本語支援教室を見るとよく分かる。


 義務教育も中学までである。

 中学を卒業した生徒の求人はほとんどない。また、労働基本法や、社会保障のシステムや、ローンや金融の仕組みや、性由来感染症(STD)などの知識をほとんど持たず義務教育を終える。




 OECDの中で国費に対し教育費の割合が最も低い国であり、教育を社会投資と考えない国でもある。




 子どもを、脅迫を資本とする受験産業の消費者としてしか見ない、そんな国である。消費者と成り得ない子どもたちは教育現場から排除される。その子どもたちは本来教育を必要とする子どもたちであるのにである。




 脅迫資本主義は子どものを過度の競争社会に巻き込む。しかも、この競争社会はフェアな、つまりスタートラインが平等な競争ではない。そこに追い込まれた自己決定権の無い子どもたちは情を失う。コミュニケーション環境を得られないし、共生感覚も感得できない。受験産業の中では、コミュニケーションも、協調も「テクニック」になってしまう。


 いじめ、不登校、自死、ひきこもり、自傷、DV、薬物依存…もうとっくに悲鳴が耳に届いている。




 その悲鳴は社会不安をもたらし、その社会不安は国をして、援助ではなく抑え込みへと走らせる。街中に監視カメラが作動し、少年たちがタムロするのを絶対的に禁止し、少年関係法を改正し14歳で少年院に行く社会にしてしまった。




 また、別の面では学問をさせない。

 中学半ば、高校半ばで受験体制に押しやり、学問から遠ざける。さらに、大学では1年から「シューカツ」だと言う。大学ですら学問できない。少子化の危機を持った受験産業は「シューカツ塾」を開きはじめた。こんな不幸な学生たちが他の国にいるのだろうか?




 教育現場から排除された子どもたちは、居場所を失い、子ども期を搾取され、時間を搾取され、肉体や性的なものですら搾取される。


 そして、子どもが環境があれば「変われる」可能性を否定してしまう。




 定時制高校は自治体による教育費削減方針の中で統廃合され、激減した。

 その廃校になった定時制高校の1クラスの4年間を追った作品が、この作品である。

 学級通信に茨木のり子の詩を載せ、それを担任が皆の前で読む。




「自分の感受性くらい」




ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて



気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか




苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし



初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった




駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄




自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ