大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
③行成の不安
懐妊が明らかとなり、出産準備のために彰子は土御門殿へと退出します。
三月十九日、敦康親王家別当を務める藤原行成はある夢を見ます
―多くの僧が集まって彰子についての慶びを言う中、行成は生まれる子どもの性別はどうかと問うと、どこからか「男なり」という声が聞こえてきた。慌てて起きて夢だったことを確認し再び眠りに着くと、今度は後涼殿の南屏が転倒する夢を見た―(『権記』)
また同じ月の二十二日には、臥せっていた長谷の観修大僧正から行成に宛てて「天道、命を賜うに三年」という書状が届いた。(『権記』)そこには誰の寿命かは書かれていなかったものの、不吉な予言です。
七月十日、一条天皇は自分はいつ厄年を迎え、在位の年限はどう数えるのか、その算定方法について諮ります。(『山槐記』)在位の年限の算定方法には、起点をいつにするかで変わります。受禅(前天皇からの打診)の年・即位の年・最初の改元の年のうち、どれか一つを選んで数えていきます。このとき算博士の三善茂明は「当代は反正の主に准え、即位の年より計る」との意見を出します。寛弘五年は一条天皇が数えで29歳となり、厄年を越えて健康に不安が出てくるのではという認識が公卿たちに広まっていたと考えられます。これまでにも見てきたように、一条天皇は幼いころから病気がちで、行成だけでなく宮廷の人々全体が不安の中にいたとしてもおかしくはありません。四月七日に歯痛を患った際に、慌てて道長が一条院にやって来たのも(『御堂関白記』)無理のないことなのでした。
ところで、先に挙げた三善茂明が言った反正とは、正しい状態に返すことを言います。一条天皇は「反正の主」、つまり草創の主ということになります。『山槐記』によれば、反正の主とは光孝天皇などのように新たな皇統を創出した天皇のことで、一条天皇もそうだったとしています。かつて一条天皇の父親の円融天皇が立ったときにその兄の冷泉天皇の皇統が正しいとされていました。(※第一回(2)参照)
それが即位から20年が過ぎた時期に、「反正の主」と評価されるようになるのは驚くべき変化です。こうして考えてみると、一条天皇は皇統を本流に返した存在、次の後一条天皇が生まれる前から円融系を「正」とする皇統観(認識)があった(「平安時代の皇統意識」岡村幸子、『史林』八四-四、2001年)とする推定もおかしくはないのでしょう。
(2)ー①に続きます