大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜第十六回(3)-②道長の辞表提出 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



②道長の辞表提出

長徳四年(998年)三月三日、藤原道長は一条天皇に出家の意を固めたことを奏上します。このころ道長は腰痛に悩まされていたもやもやとも言われ、そうした体の不調から辞意を訴えたと考えられています。しかしこれを聞いた一条天皇は「病気ではなく邪気(物怪)魂によるもの」と断じ、辞職を許しませんでした。『権記』には一条天皇が道長に対して「今自分を助け導くのは丞相=道長しかいない」という言葉を伝えたことが載っています。しかし一条天皇は「その決心が固いものならば、病が癒えてから出家をしてはどうか」とか「よく考えて申請し、その時どうするかを考える」とも言っていて、回復後の出家については幅を設けています。五日、一条天皇は道長のための祈祷を行わせますが、十二日に道長は正式に辞表を提出してしまいます。(『本朝文粋』)その時の辞表文には、

自分が高位についたのは

・天皇の母である姉の詮子の兄弟だっただけ

・父や先祖のおかげ

・二人の兄(道隆と道兼)が早くに亡くなってしまった

等を挙げて、そもそも自分はこんなに昇進するような人間ではないぐすんと、何とも弱気な言葉が並べられていました。何しろこの時彰子は十一歳、後を託すべき長男・頼道は七歳と共に幼く、このまま持ち直しても先が見えないと感じても不思議ではありません。

しかし、この弱気な辞表を目にしても一条天皇は「文書の内覧」と「近衛の随身」を停止しただけで、大臣辞任は許しませんでした。二十六日、定例の旬政が開かれましたが一条天皇は道長の病気が癒えないので自らは紫宸殿に出ず、旬政の後に行われる音楽の演奏などもやめさせるなど、道長のことを気遣っているようです。その一方で、やはり「病が癒えてから入道(出家)しては」「よく考えてまた申請してほしい。その時に考える」と重ねて言ったと行成が日記(『権記』)に記している所を見ると、絶対にダメバツレッドではなかったようです。とは言え政権メンバーを見渡してみた時に、道長ほど適切な人物はいないという判断は一条天皇の中では揺るがなかったと考えられています。

 

右矢印(3)ー③に続きますグラサン