大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜第十六回(3)ー①一条天皇の自立と尊子入内 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



(3)長徳四年の危機

①一条天皇の自立と尊子入内

長徳四年正月十一日、藤原行成は特別に一階を進められて従四位上となります。この時「蔵人頭や左中弁として勤めることを褒める。その後輩を励ますためにも臨時に叙する」と一条天皇から直々に言われたことを日記に記しています。臣下に対する冷静な評価を下す一条天皇の姿が窺えます。

正月二十二日、円教寺の落慶供養が行われます。円教寺は一条天皇の御願寺、のちに後院(譲位後の御所)として整備しようと造営されたものです。二月十一日、詮子は一条の後院の別当(長官)の候補を挙げますが、すでに別当は多数いるからアセアセと一条天皇にこれを拒絶されてしまいます。後院の別当に定員はないと詮子は食い下がりましたが、七、八人を超えることは難しいもやもやとの判断を一条天皇は示します。

同じく二月十一日、道兼娘の尊子が御匣殿(貞観殿)別当として入内します雛人形

御匣殿とは、平安京内裏北側の後宮の中心を形成する七つの建物(後宮七殿)のうち、最も北にあるもので、ここに皇后宮職の役所が設置されたほか、衣服以外の縫い物をする女官が詰めていました。


尊子の母親は一条天皇の乳母だった繁子で、彼女の働きかけがあったとみられています。しかし尊子は長保二年(1000年)に女御になるまで御匣殿別当のままで、一条との交流の形跡も残っていません。道兼がすでに故人となっており、しっかりとした後見がいない状況が影響したとみられています。

これらのことから生母の詮子、乳母の繁子の思惑を一条天皇が明確に退け始め、また一歩自立の道を進めたようにも考えられます。

二月二十三日、懐妊中で実家の堀河殿に下がっていた元子を、一条天皇は再び内裏に参入させます。彼女への気配りと寵愛も続いていたようです。

 

右矢印(3)ー②に続きます爆  笑