大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”~第十五回(2)ー①定子の悲劇と一条後宮 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

(2)後宮の変化と長徳の変の結末

①定子の悲劇と一条後宮

長徳二年六月八日、中宮定子が御在所としていた二条邸が全焼炎してしまいますガーン

侍に抱きかかえられながら焼け出された定子は、最初高階明順の邸宅に移り、そののちに権中納言・平惟仲(中宮大進・平生昌の兄)の元に身を寄せます。身重の定子に降りかかる悲劇を、実資は『小右記』の中で

「禍福は糺(あざな)える纏(縄)のごとし」

下矢印

幸福と不幸は、縄をなう(あざなう)ときに藁の束をより合わせるように交互にやってくる

と、『史記』の一節を採ってまとめていますうーん

 

定子の後ろ盾が没落したことにより、それまで遠慮していた公卿たちも娘を入内させることを考え始めます。弟も子どももいない一条天皇サイドからしても、定子の子どもが皇子にしろ姫にしろ、他の有力貴族から後継者を出さなければ皇統を残せない可能性が高くなってしまったのです。第九回(1)ー③でも触れたように、既に東宮・居貞親王には敦明親王が誕生しています。長徳の変で難しい状況に追い込まれていることを考えても、悠長なことを言っていられません。しかしリーダーシップをとる道長の娘の彰子はまだ9歳です。詮子が義子と元子の入内について「誰であっても御子を」と語った(『栄花物語』)のはこういう理由からでもあったのです。

七月二十日、大納言藤原公季娘の義子が入内、八月九日に女御とされます。藤原公季は藤原師輔と醍醐天皇第十四皇女・康子内親王との間に生まれ、兼家の異母弟に当たりますが、母の出自により皇族にも准じる扱いを受けていたと伝わる人物でもあります。義子の母親は醍醐天皇第七皇子・有明親王の娘であり、血筋として申し分がありません。しかしどうやら一条天皇自身は義子との”機会”を遠ざけたようで、彼女に懐妊の兆しはありませんでしたショボーン

 

右矢印(2)ー②に続きます口笛