大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
第三回 円融天皇と藤原兼家
『光る君へ』第三回では、策謀を巡らせる兼家とその動きを察知して牽制する円融天皇の姿が描かれていました。
いやー、痺れました
しかし道兼を使って暗躍する兼家・・・
とっっっても怖い
でも、わざわざ高価な薬を使ってってそんなメンドクサイことしなくてもな・・・
案の定、実資には疑念を抱かせちゃってるし。
大体、道兼クンでは
実資に対抗するなんて無理無理~ (^O^)
ま、ドラマなので
「面白けりゃいいんです」
byタナケン(朝ドラ『ブギウギ』)
さて
実際の円融天皇と兼家の関係ですが、あまり良好とは言えなかったようです。
今回は円融天皇と兼家、それぞれの立場からみていきます。
(1)円融天皇の視点
第一回(2)でも紹介したように、
この頃の皇位の嫡流は
【村上ー冷泉(憲平)】
が基本でした。そのため、憲平親王が村上天皇の皇太子として立つと、藤原北家など臣下たちはそちら側に働きかけを強めます。
963年(応和三年)に伊尹の娘・懐子が
968年(安和元年)には兼家の娘・超子が
入内します
反対に円融天皇(守平)をはじめとする村上天皇の他の子女たちは、ほとんど気にかけられることがなかったようです。そんな彼らを支えていたのは母で村上天皇皇后の安子でしたが、第一回(4)ー①でも触れたように、安子は守平が5歳のころに死去。その後彼らは安子の妹・登子と弟・兼通の庇護を受けます。
安子は兼通に「摂関は兄弟の順で」という文を遺しましたがそれは守平の立太子前から兼通が他の子どもたちの面倒をよくみていたからだとされています。実際、兼通は東宮権大夫としてよく仕えます。
・自分たちのことは無視して
せっせと兄(嫡男)に近づく伊尹と兼家
・時世と関係なく(ないように見える)
何かと世話を焼く兼通
幼い子どもの目には、どちらが頼みだと映るでしょう
即位後、円融天皇は兼通の娘が入内するとその年のうちに皇后としました。中宮へ進めます(※2024年1月27日訂正)
(この時彼女は27歳くらいだったといいます)しかし977年に兼通が、979年には皇后も子どものないまま亡くなってしまい、今後について再考せざるを得なくなります。
この時残っていた有力な臣下は頼忠(小野宮流)と兼家(九条流)でした。どちらも実力者でしたが、結果として皇位継承者候補である子どもの外戚となったのは兼家側でした。円融天皇にとって兼家は自分にとっては母方の叔父であるのに対し、頼忠は大叔父(母・安子の父である師輔の兄・実頼の息子)です。外戚としての発言の重みが違うのは実頼の例を見るまでもなく明らかなので、「後見としては」兼家の方がまだ心強いものがあったのかもしれません。
しかし、懐仁親王誕生時(980年)兼家の娘の超子は既に居貞・為尊両親王を産んでいました。
円融天皇には一代限りの天皇となる可能性がまだ残っていました。