大河ドラマ『光る君へ』”勝手に”解説~第一回(4)ー②兼通と兼家の諍い | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

 

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。 

 

 

 

 

(4)藤原兼通

※(4)ー①からの続きです

 

 

 

②兼通と兼家の諍い

973年、兼通は前年に元服した円融天皇のもとに娘を入内させ、彼女は皇后となります。

(2)でも述べましたが、このころは「村上天皇→冷泉天皇の子孫が正統」で円融天皇は「一代限り」と見做されていたので、伊尹も兼家もまだ円融天皇に自分の娘を入内させていませんでした。

977年10月に病が重くなった兼通は、実頼の息子・頼忠に関白を譲ります。

『大鏡』を見てみると…

兼通の病が重いと知った兼家は、円融天皇に次の関白を願い出ようとしていた。兼通の邸宅はその参内途中にあったので、向かってくる兼家の行列を見て「いくら仲が悪いとは言え、見舞いに来てくれるのだ」と喜び迎える準備をした。しかし行列は素通り。これは内裏へ向かうのだと察して激怒した兼通は病を押して参内、「最後の除目」として関白を頼忠に譲った云々…

 

このお話しはとても有名なので「聞いたことあるな」もぐもぐという方もいらっしゃるかもしれません。しかし、残念ながらこのお話しは『大鏡』流布本(同一の原本から出た諸本のうちで、もっとも広く一般に普及している本)の写本の増補にしかないので大分あやしいしょんぼり 

と言うか『大鏡』や『栄花物語』は物語性が強く、道長のことを批判的には書いていない面があるので、その父親のこともそんなに悪くは描いていないんですよね。

この時代の研究者にとってはとても扱いが難しいんですよぼけー

なので、現在は創作されたものよりも、本人が書き記したもの(日記)が重要とされています。

 

さてお茶ここで思い出してほしい

実際には972年4月に源兼明を皇族に戻していることを(・∀・)

 

この時に忠頼は左大臣にスライド気づきされているのです。つまりこの時に兼通→忠頼への移行は想定していたと考えられるのです。

 

そしてその時の兼家はというと…

左右大臣の下に当たる大納言だったのです!

 

ところで皆さん。二官八省って覚えてます?日本史の授業本で習いませんでしたか?

太政官と神祇官があって・・・っていうアレです。

ざっくりと太政官の仕組みを図にすると

 (ざっくりしすぎですが)

 左大臣       ┏左弁官┓

 太政大臣 }大納言ーー少納言ーー八省

 右大臣       ┗右弁官┛

 

兼通と兼家が不和だったというのは確からしいのですが、いくら好き・嫌い/合う・合わないがあったとしても、上席が存命中で、いまだ大納言の兼家がこれを飛び越えることは出来ないのが貴族社会というものですスーツ

 

兎にも角にも頼忠は関白に就任。北家嫡流としては久々のことです。

977年(貞元二年)11月に兼通が死去すると、翌978年(天元元年)10月に太政大臣となり、左大臣に源雅信、右大臣に兼家がそれぞれ進みます。そしてそれに先立つ四月には頼忠の娘・遵子が、八月には兼家娘の詮子が円融天皇の後宮に入内するのです。