大河ドラマ『光る君へ』”勝手に”解説~第一回(5)藤原超子 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。 

 

 

 

(5)藤原超子

『光る君へ』初回放送で「あれ?」びっくりとなったことの一つに、藤原兼家の娘の超子についての言及がないことでした。貴族社会で女性が入内することはどんな意味を持つのかを強調したくて省いたかな?とも思えますが、二回目以降に出てくるかもしれません。

 

超子は兼家と時姫の間に生まれました。正確な時期は分かっていませんが、954年頃の生まれとみられます。

整理してみると、

 道隆(953-995 )

 道兼(961-995 )

 詮子(962-1002)

 道長(966-1027)

なので、道隆の妹で、道兼・詮子・道長にとっては姉に当ります。

968年(安和元年)に冷泉天皇に入内、女御となります。

何度も言いますが、このころは

「冷泉天皇の子孫が正統」で「円融天皇は一代限り」

という意識があるので、兼家としては彼女を入内させて布石を打った手形です。

超子は冷泉天皇退位後に居貞(後の三条天皇)為尊、敦道を産みます。三人の親王、特に為尊・敦道両親王は東三条殿で養育されます。

それなら道長と超子が仲良くしている話でも伝わってもよさそうなのですが。詮子と違って年齢は10歳以上離れていますし、入内時期から考えても親しくするのは難しかったのではと考えられます。また超子は982年(天元五年)急死してしまいます。そしてこれが後に道長と三条天皇の間に起きる軋轢に大きく影響してしまいますガーン

ちなみに、庚申待(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)の明け方に亡くなったので、以後兼家家では庚申の行事を行わなくなったと伝わっています。