ファーザー | kazuのブログ

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ようやく、土日の映画館も開演!

久々の投稿!これに伴って早くお客さんも帰ってきてほしいですね。もう来月にはオリンピック。なのにまだ国内ではするだのしないだのと宣わっている始末。みんなでやるって決めたんやから腹くくって協力しましょうよ!ほんまやったら町中、カウントダウンだのなんだのってお祭り騒ぎなはずやのに何なんでしょうね、この空気は...。

このコロナ禍での最大の被害国は日本!こんなこと言うと他の国の方には怒られるかもしれません。世界中には日本と比べられないほどの死者を出している国が多数あります。でも昨年のダイヤモンドプリンセス号の件から始まり、一年延長となったオリンピック。この経済損失は計り知れません。思えばもう二年前になるんですね、ラグビー・ワールドカップで日本は開催国としてホストとして世界中から絶大な賛辞をもらいました。それが年が明けると一転、欧米人たちからのいわれのないアジア人差別。なんやねん!中国と一緒にせんといてくれる?

その中国共産党にはほんまに腹が立ちます。世界中にバイ菌まき散らして、どさくさに紛れて人の家に土足で入って来る。私、非常に不思議なんですが、なんで世界は中国に賠償責任を求めへんの?先日、ようやく前アメリカ大統領のトランプさんが声を上げてくれました。

「中国は世界に賠償責任を果たすべきだ!」

ひょっとしたらこの人は世界の救世主だったかもしれませんね。だとしたら世界中のマスコミの功罪は計り知れないものです。

 

先日そのアメリカでアカデミー賞が開かれました。なんか今までとは違ってどっかのクラブかなんかでやっているようなディナーショーみたいで私には少々寂しく映りましたが、番狂わせは主演男優賞アンソニーホプキンスだったようです。高齢の彼は受賞式には参加せず、取れないと思っていたのかどうか発表のあった時刻はロンドンの自宅で就寝していたそうです。

その彼の受賞作「ファーザー」を映画館再開後の第一作として観て参りました。あの世界中に衝撃と恐怖を与えた「羊たちの沈黙」のハンニバルレクターから29年。彼が演じたのは年老いた認知症と戦う老人。高齢化社会となった今を問う作品です。

 ロンドンの自宅で一人暮らしの生活を送る老人アンソニー。彼を気遣う娘のアンが度々訪ねて来るが認知症が進む父を見て心を痛める。しかし新しい恋人と彼が暮らすパリで新しい一歩を踏み出そうとする彼女は新しい介護士を雇おうとするするのだがアンソニーは憤慨し、拒否をする。

その日アンソニーが気付くと自宅に見知らぬ来訪者が現れた。一人は男性で彼はアンと結婚して10年になりこの家の所有者は自分たちだという、そしてもう一人見知らぬ女性は自分がアンだといい、実の娘のようにふるまう。混乱して部屋に戻ったアンソニーを心配して様子を見に来たのは娘のアンであった。何とか新しい介護士を雇うことになったのであるがその新しい介護士ローラが訪れた初日、アンソニーは上機嫌でめずらしく饒舌になっていた。彼は元エンジニアだったのに昔はタップダンサーだったと言ってローラの前で踊ったりして見せた。アンソニーにはもう一人、ルーシーと言うプロの画家で世界中を旅している娘がいる。ローラは彼女とよく似ているというのだ。

アンに伴われアンソニーが医者を訪ねた。医者はアンソニーに記憶の方はどうかと尋ねるがアンソニーは「全く問題ない」と答える。だがアンソニーは近々、娘のアンが近々、ロンドンを離れ恋人とパリへ引っ越すという。しかし、彼女はそんな話をした覚えはないと言う...

 

このストーリー、あらすじだけを書いていると支離滅裂、話の辻褄が合いません。それもそのはず物語はこの認知症を患う老父アンソニーの目線で場面は展開していきます。最初は何が何だかわからず少々うとうとしてしまう羽目になりますが全く主人公が知らない人間が身内だと言って出てきたり時系列も異なり登場人物もぼやけてきます。

「ああ、認知症の世界と言うのはこうなんだ」と教えてもらいます。長生きすればするほど通らなければならない道。思い出されるのは私の親父。親父は癌の苦痛から幻影を観ていたようでしたから認知症とは言えません。こうなる前に亡くなってしまったので「幸せだった」と言う言葉は決して使いたくありませんが果たしてどうだったのか...。

 

私が感じたのは正体不明の人物が目の前にいる。今はいつなのか?何を話しているのか全く理解できない。今、目の前に展開されていることは現実なのか夢なのか、時系列は刻一刻と変わっていきます。カメラは殆ど部屋から出ません。物語は殆ど建物の中で展開していきます。それはまるでゴシックホラーを観ているようです。いつかはこの受け入れがたい画像が自らの目の前に姿を現す。私はその時、それを受け入れることが出来るのかな?

 

ラストで泣きじゃくる父親を娘のアンは子供をあやすように慰めます。「うんうん」と頷くその老父の姿はまさに年端のいかない赤子のよう。子が生まれた時喜び勇んで父親は子をあやします。しかし何十年もの時が流れると今度は子が悲しみの果てに父親をまるで赤子のようにあやします。人の一生とはそういうもの。そしてこのラストシーンは父が「それ」を受入れた瞬間だったと私は思います。