その①から
高田駅前の雁木通りを散策した後は本命の高田城を目指します。高田城は続日本百名城の一つです。歴史的にもたいへん興味のある城の一つでぜひ登城しようと考えていました。なんせ徳川家康の六男の城ですからその築城や存在の意義も大きかったのではと推測します。
高田城址公園にやってきて蓮畑を楽しんだ後は西堀を歩いていよいよ本丸へ向かいます。
高田城の歴史は徳川家康の六男松平忠輝が堀氏に替わって入封したことから始まります。当時は日本海に面した現在の港の近くに堀秀治・忠俊父子により築城された福島城が存在していましたが松平忠輝の高田築城に伴いわずか7年で廃城となりました。築城1614年と言えば大坂の陣の起こる直前で豊臣と徳川の抗争が顕著になってきており上杉景勝や前田利常をけん制するため築城されたと言われています。家康の嫡男ということで立派な城をという周りの忖度は半端なかったのではと思います。
築城には13もの大名が参加して天下普請として約4カ月でほぼ完成となりました。忠輝の妻は伊達政宗の五郎八姫ですから伊達政宗も築城に相当力を入れたものと思われます。
二ノ丸跡を歩いていると内堀が見えてきました。流石は大規模の名城で堀が広くて爽快だと感心していたところにいきなり三重櫓が見えてきました。
高田城にはそもそも天守閣は無く築城当時は二重櫓があったとのこと。現在の三重櫓は絵図や古文書を元に平成5年に再建されたものです。
また特徴として天下普請ですから膨大な石垣や立派な天守を想像しましたが石垣は無く土塁の本丸上に櫓が建っているのがわかります。実際に築城された1614年は大阪城の豊臣家との決戦が近づいておりとにかく急ピッチで造られたと考えられます。
本丸に渡る極楽橋が見えてきました。
二ノ丸から本丸へ向かう極楽橋ですが、忠輝の築城当時から原型はあったようです。
極楽橋の案内板です。
案内板にある通り当時の木製橋に近づけるために様々な工夫がされているとのことです。
定番の顔出しを横目にいよいよ三重櫓に登ります。
三重櫓についての案内です。
入城口より櫓に入ります。
本丸の模型で分かり易いですが三重櫓は南西の隅っこに建っていますね。
櫓内の案内がとても分かり易くて良かったです。新たに細かい知識の習得ができました。
広大な内堀が人口の堀であるということです。
外堀も最大幅130メートルもある全国屈指の規模だそうです。
確かに城の南西の隅に瓢箪曲輪と呼ばれる防御のための突き台しがあったそうですが、現在はその地形を利用して野球場になっています。
高田城城主松平忠輝については謎が多い人物ですね。広大な高田城を築いた(築いてもらった?)ものの2年後には改易され亡くなるまでの人生の後半を高島城で過ごすことになりました。改易の理由は生れつきの忠直の人相を家康が嫌っていたとか人望・才能に溢れすぎてて存在が恐れられたなど諸説あります。嫡男でありながら駿府での家康臨終の際も面会は許されなかったと言われます。
忠輝が改易された8年後入封したのは光長ですが58年もの在封の間に治水や交通網整備など多くの実績を上げた名君で高田が大いに繁栄したようです。この人は北の庄の松平忠直の嫡子ですね。忠直と言えば家康の孫で北の庄城主でありながら素行が悪く狂気的乱行を繰り返したために豊後に流された人物です。そしてその子光長も晩年越後騒動というお家騒動に巻き込まれ改易を経験します。
家康ー結城秀康ー松平忠直ー松平光長の系図ラインですね。このラインは波乱万丈の人生が多く絡み合っています。
忠輝は初代城主、光長は第四代城主という事になります。
三重櫓の三階に登って来ました。さすがに内観は新しい印象です。
三階からの眺めですが堀の広さが際立ちます。
西掘方面へ続く橋がありますが小林古径美術館がありますね。
暑かったのでエアコンの効いた休憩所は本当に助かります。
現在の三重櫓は市民の要望に応えて平成5年に再建されたものですが威風堂々としています。
忠輝に関する知識は小説「捨て童子・松平忠輝」を読んで関心を持った次第です。実際に小説の現場になった高田城にこれて良かったです。
上越市歴史博物館です。
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