その①から

赤穂駅からはお城通りを真っすぐに歩こと約10分で赤穂城が見えてくるアクセスの良さです。

大手隅櫓が見えてきました。

城の北側の堀の様子です。

堀は幅がそれほど無くしかも浅いですね。実際の防御にはあまり効かない印象ですが・・。

この先の大手門から登城します。

赤穂城は常陸国笠間から入封した浅野長直が13年の歳月を費やし1661年に完成した城です。ただ浅野氏は刃傷事件により三代で断絶となり城も明け渡しとなりました。

赤穂城についての解説が非常に分かり易くまとめられていました。1661年にここに城を造る目的は何かが気になりましたので探求してみたいです。

枡形を曲がって進みますがこの先は三の丸となります。

大手門枡形についての解説です。

城の縄張りは複雑で本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式です。非常に珍しい変形輪郭式と呼びますか。甲州流軍学に基づいたものか城の外郭は円でも正方形、長方形でも無く複雑な形をしています。

二の丸に入る二之丸門跡です。

二の丸門跡の案内板がありましたが山鹿素行が縄張りを一部変更した場所とのことです。

山鹿流兵法および古学派の祖として知られる儒学者の山鹿素行の銅像です。朱子学を批判したことから赤穂藩へお預けの身となったことで赤穂城の縄張りを指南しました。

この広場は二の丸庭園跡になります。

大石頼母助は内蔵助の大叔父にあたり浅野長直に重用された家老とのこと。この二の丸に唯一屋敷を構えていたとのことですが。
その屋敷の一角に謫居させられた山鹿素行が暮らしていたとのこと。

二之丸庭園には池も存在し風流な遊びの場所であったのかもしれないです。

二ノ丸から本丸へ入るにはこの本丸門から入ることになります。

本丸の表玄関は長方形の内枡形を備えた櫓門と高麗門からなっていました。

立派な櫓門がそびえていました。

本丸には高さ9.2メートルの立派な天守台が造られていますが天守閣が造られた記録は無いです。

立派な算木積みを横目に天守台に登ります。

天守台の上には当時から何も無いですね。天守台のみ作られる例は他の城でもみることができます。

天守台からの本丸の眺めですが、本丸に間取りの線が引かれて本丸御殿の間取りがよく分かります。

本丸に関する案内です。

本丸門とは本丸の真反対にあるのが刎橋門です。非常時本丸が危機に陥ったときには本丸南の刎橋門を出て橋を切落とし水手門から船で瀬戸内海へ逃れることを考慮していたようです。かつては海に面していて船着き場もあったようです。

本丸の東側には厩口門がありました。高麗門(内側)が復元されています。

外からみた厩口門の様子です。

城の各隅にはかつては櫓が置かれどこから攻められても防御できる仕様です。

甲州流軍学に基づく縄張のせいか石垣の塁線が複雑に折れ曲がるいびつな連続線で敵に対して多方向から射撃できるように考えられています。

城の東側の船入跡には現在赤穂市立歴史博物館が建っています。かつてこの地にあった米蔵をイメージした建物です。

忠臣蔵の好きな歴史ファンにとっては赤穂に来ることは一つの夢でしたので十分に楽しむことができました。先日訪れた熊本の山鹿温泉にも赤穂義士の遺髪塔がありましたように全国あちこちでその忠義は讃えられています。今度は久々に東京本所の吉良邸跡や泉岳寺などにも訪れてみたいですね。(30)

 

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