その①より

本当は指宿の今和泉に行こうと思っていたのですが大雨で指宿枕崎線が運休となるなど予定変更を余技されました。そこで動いている鹿児島本線は日置市伊集院へ島津義弘のゆかりを訪ねて旅することとしました。鹿児島中央からローカル線で約20分で伊集院駅へ到着します。

島津義弘は日置市の伊作城で誕生し伊集院の一宇治城で育ったという事で伊集院駅周辺に史跡が残ります。

駅の構内で早速島津義弘の活躍の分かる展示がされています。最も有名なのでやはり関ケ原合戦の際の敵中突破でしょうね。

通路にも島津ゆかりの武将のなりきりポスターが目を惹きます。

例えばこれは島津義弘公と正室の実窓夫人ですが義弘は愛妻家だったとも伝わります。島津義弘は島津義久、義弘、歳久、家久の四兄弟の二番目ですがいずれ劣らぬ猛将揃いです。

長男の義久と三男歳久です。歳久は秀吉に降伏後にも秀吉に矢を仕掛けるなど最後まで反抗しました。義久の晩年は義弘と意見の相違が顕著になってきましたが、個性強いあふれる兄弟をまとめるのにも長男義久は苦労していたと思います。

こちらは四男の家久です。肥前の竜造寺や豊後の大友を攻めるなど九州統一の要でした。

島津豊久は四男家久の息子で義弘の甥にあたります。家久が死去した後義弘が父親代わりに育てたことで絆が深かったようで義弘の敵中突破の際に義弘を逃がすため自分が殿を務め討死してしまいました。

長寿院盛厚は義久、義弘に仕えた家老ですが義弘の敵中突破の際に身代わりになって討死したと伝わります。

そして駅前に出ると目を惹くのが島津義弘の騎馬像です。

これも中村晋也氏の作品ですね。義弘の敵中突破の姿を再現したものという事です。本当に全国あちこちで中村晋也氏の作品を目にしますね。いずれも素晴らしい作品です。

まずは駅前の観光案内所で情報収集します。史跡の地図について丁寧に教えていただけます。

地図を見ながら最初に訪れたのは島津義弘を神と祀る徳重神社です。

かつて義弘の菩提寺である妙円寺があった場所ですが廃仏毀釈によって妙円寺は廃寺とされその跡地へ明治4年に創祀されたのが徳重神社です。義弘の没後に鹿児島の城下士たちが義弘の苦難を偲び、毎年9月14日の夜に鹿児島~伊集院間を歩き妙円寺に詣り鹿児島に帰還する妙円寺詣りという行事が現在も行われています。

妙円寺詣りについての案内板を読んで納得したのは、島津義弘の敵に背中を見せてはならじという敵中突破の精神はこの妙円寺詣りの伝統によって幕末の西郷、大久保らにも継承されていたということですね。さらに現在までも継承されて薩摩の強い青少年を生む心身と精神の鍛錬の礎になってきたようです。

手水舎にも島津の家紋が見えています。

吉弘公に向かって勝ち運をお願いしました。日置で産まれ九州の戦闘に明け暮れた後秀吉に屈服、その後は秀吉の先鋒として朝鮮で活躍しその後は関ケ原で西軍に付き敗北、敵中突破して鹿児島に戻るなど波乱の人生でした。しかしその真っすぐな生き方と精神は薩摩で崇拝され今に継承されています。

徳重神社からすぐですが現在も妙円寺が存在しているのでお詣りします。

島津義弘が自らの菩提寺と定めた妙円寺です。妙円寺は現在の徳重神社の場所にありましたが廃仏毀釈に逢い焼失、明治13年に現在の妙円寺の位置に復興しました。現在も島津義弘公の位牌が存在します。

お詣りを終えて近くを散策します。線路を渡る地下通路にも武者行列のモニュメントがありました。

橋に架かる電灯が昔の松明のようでおしゃれでした。

川も昔からのままでしょうから義弘や兄弟も幼少期には泳いだりしたのかも知れないですね。

そして島津義久、義弘、歳久の生母の菩提寺である雪窓院跡を訪ねてみます。場所はトンネルからすぐの交差点になります。

 

草ぼうぼうですが今は無き雪窓院の仁王像の頭部が置かれているのを発見しました。

横にあった大きな岩はなんと長男の島津義久が秀吉に屈服するために雪窓院を訪れこの岩の上で剃髪したと言われる石とのことです。義久は恐らく死を覚悟して母の菩提寺に最後のお詣りに来たものと思われます。この後川内の泰平寺で秀吉の前に降伏します。泰平寺にも行ってみたかったですね。

義弘が育った一宇治城にも行ってみたかったですが今回は諦めました。伊集院を後にします。駅から眺めると義弘の騎馬像が見送ってくれていました。

短い時間でしたが島津義弘が活躍した伊集院で史跡を回れて有意義でした。鹿児島は広いのであちこちに史跡が広がっているので現地で散策するのが楽しいです。

その①へ