その②から
本渡から北に向かって鬼塚港にやって来ました。この港は島原半島南端の口之津港と天草を約30分で結びます。
多くの車を積載できるフェリーが一日に10便以上出てますので地元の貴重な運送の足です。島原半島に渡れば原城や島原城など多くの史跡を回ることができます。
島原の乱の頃にも多くの天草の領民が天草四郎を中心に島原・原城を目指して有明海を渡っていったのでしょうね。ただ一揆軍は天草四郎と共に皆殺しにされた悲しい運命をたどります。
港にも天草四郎が建っていました。これから向かう島原の方角を希望に満ちて見つめているようです。
その先は富岡を目指しますが途中に道の駅天草イルカセンターがありました。
この沖合一帯は野生のハンドウイルカが生息する場所として有名で船からイルカウォッチングができるそうです。海が豊かなんでしょうね。
途中おっぱい岩の看板を発見しました。確か出川の充電バイク旅で立ち寄っていたのを思い出しました。
珍しい形をした奇岩ですね。あまりご利益は期待できない気がしますが(笑)
実際におっぱい岩を見て触れてみようと思いましたがなんと潮が満ちておっぱい岩は水没しています。引き潮の時しか現れないのです。残念!。
さらに進むと左側に十字架の碑が見えてきましたが天草四郎が島原に向けて出港したと言われる地です。
島原の乱の緒戦で富岡城を攻めた天草四郎を首領とする一揆軍ですが陥落できなかったため原城に集結するために出航したのがこの地ということです。
富岡半島を進むと正面の小高い丘に城の櫓らしきものが見えてきました。富岡城です。関ケ原の乱の後に唐津城主の寺沢広高にこの地が与えられ築かれたのが富岡城ですがまさかこの地で大一揆が起きるとは想定しなかったと思います。2代目堅高は責任を取って領地没収となりその後自害したと伝わります。
天草の農民が蜂起し2度に渡って攻めたのに籠城して落城できなかった要害堅固な城の実際を見学したいですね。
富岡城の案内図がありましたが思ったよりもコンパクトな印象ですが海や砂州に囲まれていますね。
かなり石垣は高さがあって立派で堅固な印象です。
広々とした出丸ですが海が見渡せる立地です。
出丸から二の丸へと進みます。左は東櫓です。
二の丸跡ですがすぐに四人の銅像が目に入ります。
左は島原の乱の後に天領となった天草の初代代官となった鈴木重成です。乱の後にすっかり荒れ果てた地の復興に注力し寺社の復興や農地開拓、住民の受け入れなどを積極的に行いました。右は重成を補佐した兄の正三です。
左には勝海舟の銅像です。
勝海舟は二度ほど富岡を訪れており近くの鎮道寺には落書きが残っています。実物を見てみたかったですが劣化してもう見れなくなっているという話でした。
復元された高麗門をくぐり抜けて本丸跡へ入ります。左は上櫓です。
復元された多聞櫓ですが現在は富岡城ビジターセンターとなっています。
本丸から見下ろすと西側には海が広がり浅瀬の砂州が顔を出しています。一揆軍が攻めきれなかった要因の一つの天然の要塞が見えてきます。強い海風も吹き付けます。
城の周りの城壁もしっかりと石垣に囲まれて狭間がのぞきます。
3期に渡って手を入れられた二の丸の石垣群を間近に見ることができます。
天橋立のような股のぞき台も設置されていました。本当に景色の素晴しい城ですので天気の良い時にまた来たいです。
富岡城の歴史が良く分かる年表がありました。
帰り道に鈴木重成初代代官に見送られましたが、彼は領民の年貢負担の半減を幕府に願い出て自ら腹を切って訴えたとも伝わります。確かに年貢の過大負担が島原の乱の直接の要因になったようですが彼の遺志は認められ6年後には年貢は半減されることになりました。
富岡城を出て西海岸の天草サンセットラインを南下していきます。相変わらずの海沿いの絶景のドライブコースが続きます。
途中には有名な下田温泉街があるので寄ってみます。
下田温泉の歴史は古く700年前この地で一羽の白鷺が傷を癒したことが起源とされています。
有名な足湯がありますのでアクセル踏む足の疲れを癒させていただきました。
下島の西海岸は断崖絶壁の連続で奇岩も多く荒々しい景観が続きます。こちらは有名な妙見浦の展望台です。
天草西海岸の代表的な景勝地です。
さらに小径を下って海岸に降りることもできますが岩がゴロゴロでかなり荒々しい景観です。
妙見浦の少し先ですが日本夕陽百選の一つ十三仏公園です。100m近い断崖上にあって夕陽の海岸風景が絶景とのこと。天気の良い時にまた来たいです。
奇岩が多く鑑賞できますが妙見浦の岩礁を横から見ると洞門があき姿が像に似ているとのことで像の岩と呼ばれているそうです。マンモスですかね。
その④へ