現在の八代城の以前に存在した麦島城跡を見学に向かいます。麦島城以前には古麓城というのが存在しましたので麦島城はいわば2代目八代城とも言われます。麦島城は1588年八代城主になったキリシタン大名の小西行長が築城したものです。
1615年の一国一城令が出された当時、熊本に熊本城、八代には麦島城が存在していましたが1619年の大地震によって麦島城は崩壊しました。熊本藩主の加藤忠広は幕府の許可を得て徳渕の津の北側に城を築くこととし現在の3代目八代城を築城しました。
この球磨川河口の徳淵の津と呼ばれる港での貿易で当時の八代はたいへん栄えたと言われます。
徳淵の津についての案内板がありました。
堤防には徳淵の津の碑が建ちます。戦国時代以前から港が存在し大いに繁栄していたと伝わります。八代城がここに造られたのもここに徳淵の津が存在していたからと想像出来ます。
またここ八代には中国からか河童が渡来してきたという伝説があるそうで、徳淵の津には河童渡来の碑が建っていました。
津のたもとには大きな河童の像が鎮座していました。誰か渡来してきたのを見たのでしょかね。(笑)
麦島地区へ行くには球磨川の橋を歩いて渡ります。球磨川を渡る風が気持ち良かったです。
麦島の中心部の交差点からは一直線に西へ向かいます。
約1キロ歩いたでしょうか、あまり看板類は無いので少し不安になりつつありましたが公民館の前に案内板が出ているのを発見しました。
公民館の中に麦島城に関する資料を見れるとのことで寄ることにします。
公民館には現在の麦島に当てはめた麦島城の配置が分かる地図があって助かります。この公民館は麦島城の西の端にあたるようです。この後散策するのが楽しみになります。
現在見ることはできませんが城の発掘が行われた際の遺構や発掘品が写真で見ることができました。地震で倒壊した平櫓がそのままの状態で発見されたのは全国初とのこと。
年表を見てもこの地域の移り変わりが良く分かりますね。特に秀吉の力がこの八代にも及んでおり歴史の波に翻弄されている感があります。
実際に出土した建屋の柱が展示されていますので眺めると実際にここに城が存在したんだなと実感します。
瓦などの発掘品も確認することができます。
天守台跡は麦島地区で最も標高が高い場所ですが住宅街の中にありますのでなかなか見つけることができませんでした。麦島城は東西400メートル南北350メートルの規模で天守台はその北西角にあたります。
天守台跡について確認できましたが石垣は当時の物では無いという事です。雰囲気のみは感じることができました。
城主がキリシタン小西行長であったということでキリスト教が隆盛しキリシタンが多く住む街であったという事です。多くのキリシタンが闊歩していたのでしょう。
しかしキリシタンの隆盛は短期間で終わります。徳川家康の時代になり小西行長は関ケ原で処刑されキリスト教は排除される流れとなって八代にも悲劇が訪れることになります。時代の流れに翻弄された地域ですね。
そしてこの麦島はその殉教者を生んだ聖なる地ということで記念の公園が整備されています。
市街に戻ろうとしていたらシルバーセンターの前に二の丸跡の看板を発見しました。
この辺りは麦島城の東端で二の丸、大手門があったと伝えています。
石垣や平櫓が発掘された地点です。
麦島大神宮にも立ち寄りお詣りさせていただきました。
古くからこの麦島地区を見守ってきた神社でしょう。
麦島地区には市街地から歩いても行けますが循環バスが使えますね。
八代城と言えば南北朝時代から戦国時代に掛けて相良氏の古麓城が存在し言わばこれが初代八代城と言われ実際に九州征伐の秀吉もこの古麓に滞在したと伝わります。私も今回古麓城の史跡も見学したかったですが時間が足りず八代を後にしました。
それにしても八代の3代の城を学ぶことで八代の歴史を理解することができました。八代が古くから世界と繋がって素晴らしく繁栄していた事が勉強でき有意義な旅でした。(25)
その①