大分県中津市について歴史探訪の旅をします。現在中津市歴史博物館では西向くサムライという特別展示がされておりいろいろと歴史の勉強ができます。この豊前中津地区には鎌倉の源頼朝の命により関東から下った御家人の宇都宮氏が土着して勢力を誇っていましたが、九州征伐を行った秀吉はこの豊前を黒田官兵衛に支配させたことにより土着の武士との間に大きな争いが生まれたものです。

まずは新しくなった中津市歴史博物館を訪れます。2019年に新しくオープンした施設ですが、中津城の三の丸に位置し中津城がすぐそばに見え中津城に関する展示も多く見ることができます。

展示については大変興味深く歴史好きにとっては色々と勉強になりました。特に鎌倉時代に下野の宇都宮からこの豊前の地に赴任した宇都宮氏という存在があったことや後に秀吉や黒田との衝突につながっていくことなどこの地の歴史を掘り下げて整理することが出来て良かったです。

この中津市歴史博物館は中津城の三の丸に位置していますので館内からも中津城の石垣をすぐ間近に見ることができます。

中津城の石垣は黒田官兵衛が築いた九州で最古の近世石垣と言われていますので一見の価値があります。

この時期はハスの葉は枯れていますが、花のきれいな時期は美しいと思います。

よく見上げると石垣と中津神社の鳥居の向こうに天守が見えていました。中津城についての見聞はその②で紹介します。

中津城はご存じ黒田官兵衛が築城し細川忠興が完成させたもので、その後は小笠原氏、奥平氏と続いて明治維新を迎えます。後に紹介しますが抵抗に手を焼いた宇都宮鎮房を黒田官兵衛・長政親子が誘い込んで斬殺するという凄惨な大事件の現場ともなった城です。

宇都宮鎮房は豊前宇都宮氏の18代目にあたり先祖伝来の地を守る武勇に優れた棟梁であったようです。黒田親子は抵抗する宇都宮(城井)氏との和解を提案し中津城で酒宴を開いた際に斬殺するとういう惨い方法で宇都宮氏を斬殺し家臣も皆殺しにしたと伝わります。黒田官兵衛ももさすがにこの騙し打ちについては後悔したのかあるいは祟りを恐れたためか城の中に城井神社を建立し宇都宮鎮房を祀っています。

一度は秀吉に恭順の意を見せた宇都宮氏でしたが伊予への国替えを命じられ先祖伝来の地を剝がされることに我慢がならなかったようで、朱印状の受取りを拒否したと伝わります。これが秀吉の怒りをかって黒田親子に命令したのではとも考えられます。

いずれにせよ手段を選ばない黒田親子への恨みや怨念が今でも神社の周囲に溢れている気がしました。

鎮房と共に殺された家臣たちを弔う扇城神社です。合掌です。

この事件の後に中津城には亡霊が出るとか黒田家の子孫にまで祟ったという伝説が続いたそうです。

また中津城内には西南戦争の中津隊の碑が建立されておるのが目を惹きました。中津から西郷隆盛と西南戦争を共に戦った増田宗太郎という人物についても別途調べてみたいと思いました。

市内に増田宗太郎の偉人掲示板がありましたね。増田宗太郎は西郷隆盛に心酔し中津隊を率いて薩軍側に参加、敗走する中延岡にて西郷が解軍した後も西郷に付き従い城山の最後まで西郷と運命を共にしました。西郷を表し「1日先生に接すれば1日の愛があり3日接すれば3日の愛がある、離れることはもうできない」と語ったと伝わります。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたとも伝わります。その墓も西郷隆盛と同じ南洲墓地にあります。

偉人の中でも最も有名なのは中津駅の中で乗降客を迎える福沢諭吉でしょう。そういえば福沢諭吉は増田宗太郎に命を狙われたことがると述べていましたね。

それでは城下町中を散策して豊前中津の歴史に関しての史跡を探ってみたいです。

黒田官兵衛の入封時に城下町の中の一画に寺院を集中し寺町と言う名で城下の防衛の役割も兼ねていました。

確かに寺町は小道の両側を多くの寺が並ぶ一角でしたが特に有名で異様な赤い壁の雰囲気の寺が見えてきます。

ここが宇都宮鎮房が中津城で謀殺された際に家臣団が留め置かれて後に皆殺しにされたという合元寺です。

壁に飛び散った血が何度も浮き上がってくることから壁を赤く塗ったという伝承です。真実かどうかは分かりませんが殺された家臣たちの恨みや怨念は確かに溢れている様に思います。

そして散策していると中津城のかつての三の丸に建つ学校が目を惹きます。

学校の正面横にはなんと城の石垣がむき出しのままですので生徒は否が応でも城を感じざるを得ない環境です。

巨大な鏡石もあって当時の中津城の威厳を感じさせます。

市内あちこちに石垣が保存されており散策するのが楽しい町です。

城の構築は黒田官兵衛が行いましたがその後に細川忠興が整備したことにより違うタイプの石垣が同時に見ることが出来るのが興味深いですね。

そして目の前の南部幼稚園に大手門の案内板が建っていました。

そして校舎はかつての奥平中津藩家老屋敷があったところに建っており現在はその復元された生田門を通って登校しているとのこと。子供たちにとっては歴史ある地域で学んでいることを肌で感じる環境ですね。

この地にあった中津市学校が創立された際に福沢諭吉の有名な「学問のすすめ」が書かれたということで、その後の中津の発展の出発点となった歴史的な場所と言っても過言でないですね。

1640年より中津に開業されていた村上医家が資料館になっており見学できます。中でも7代玄水さんは蘭学を学び中津で人体解剖を行ったり、9代田長さんは医者でしたが政府に批判的な田舎新聞を創刊したり大分中学校(後の大分上野丘高)や大分師範学校(後の大分大学)の初代校長を務めるなど多方面で活躍されていました。

いろいろな方面で活躍された先哲をたくさん輩出されていることに驚かされました。江戸時代から医学と蘭学で日本のパイオニアだったことはあまり知られなかったので貴重な資料館と思いました。

ちなみに増田宗太郎の人生について図書館で調べましたら、とても分かりやすい本を見つけました。この一冊を読めば西南戦争への流れと中津藩と増田宗太郎の西郷隆盛との関りが良く理解できます。西郷隆盛の人間性にどっぷりと心酔した人生でした。

「西南戦争と増田宗太郎」(帆足溢男著:非売品) 

 

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