7月の晴天の土曜日ですが江戸城の歴史ウォーキングに参加する機会を得ました。仕事場は近いのですがあまりに敷地が広大なせいかきちんとした歴史解説を聞いたことがなかったので、この機会に勉強したいと思って参加しました。結果はたいへん有意義で為になりました。
まずは東京駅から皇居を目指します。まだ梅雨が明けていない関東地方ですが雨は降りそうになくとりあえずホッとしました。
東京駅から皇居を目指して行幸通りを進み濠を渡るとまずは石垣のバリエーションに目を奪われます。濠に面した側の石垣は打込接で隙間も多く雑然とした感じですが、通りの石垣は切込接の美しい洗練された積み方になっています。これは見た目を重要視したためでしょうか。
皇居外苑には美しいクロマツが植わっていますがこれは海が近かったことの名残なんでしょうが外国人にもより神聖に映ることでしょう。
ご存じ西の丸にかかる二重橋が見えてきます、皇居の写真撮影のスポットですが名前の由来は奥の橋が従来上下の2重構造であったためだったということで、決して橋が二重に見えるからということでは無いそうです。伏見櫓は三代将軍家光の時、寛永五年(1628年)に京都伏見城から移築したものです。
皇居の外苑からはクロマツと丸の内のビル街のコントラストが鮮やかです。
二重橋につながる皇居正門ですが公式行事や新年・天皇誕生日の一般参賀などの際にのみ開かれます。「正門石橋」を渡りこの皇居正門を抜け「正門鉄橋」を通過すると宮殿東庭になります。
1862年老中・安藤信正が襲われた坂下門です。かつては桝形であったのを明治政府が90度回転配置して通りやすくした櫓門です。現在は右に見える宮内庁の通用門となっています。
三の丸の入り口の桔梗門です。かつてはこの門の瓦に太田道灌の家紋である桔梗が施されていたために桔梗門(内桜田門)と呼ばれています。
富士櫓、伏見櫓と共に現存する3櫓の一つ桜田二重櫓ですが本丸から見て東南方向の隅櫓ということで巽櫓と呼ばれます。桔梗濠越しに破風や石落としを間近に見ることができます。
江戸城の正門と言える大手門で大名が登城する際もここを通っていきました。城内に入る前には大名以外の従者たちは馬や駕籠から降りなくてはならず下馬した者たちが集まっての議論で下馬評という言葉が生まれたとのこと。
1607年に築城の名手、藤堂高虎によって作られた江戸城の正門です。正面に高麗門、くぐって右側に渡櫓門
の二つの門で構成されていました。我々も大名になった気分で同じように大手門から入ります。
大手門の高麗門をくぐると右側に櫓門が配置された桝形虎口が迎えてくれます。1620年(元和6年)の江戸城修復に際には伊達政宗ら によって修復され現在のような桝形門になったといわれています。
昔から火事の多い江戸城ですがかつての渡櫓には火災除けの鯱ほこもありましたがほとんど効果は無かったようです。この鯱ほこには刻印に「明暦三丁酉」とあり、明暦の大火(1657年)の後に大手門が再建されたときのものと考えられています。陶器でできています。
さすがに正面大手門の石垣は繊細で美しく仕上がっています。切込接で石垣の隙間はカミソリ一枚も入らないくらい緻密で驚かされます。
大手三の門跡にある同心番所ですがここを駕籠で通れるのは御三家(尾張、紀伊、水戸)と日光門主で他の大名も駕籠から降りたので下乗門と呼ばれます。
大手門、大手三の門に続く中の門跡でかつては23メートルもの櫓門があったそうです。この辺りで他の城では見られない石垣のツートンカラーが気になりますが、黒目の石は伊豆から白目の石は小豆島から切り出されたものです。かつては江戸城は海に面したいたとのことでいずれも船で運ぶことでこのこれらの大石垣が切り出せたのでしょうが城普請を豊臣大名を中心にさせることで、その財力を減らす狙いもあったと思われます。
中の門の前に建つ江戸城の中で最長(50メートル)の検問所の百人番所(現存)です。百人の同心が交代で警備にあたっていたとのことで百人番所と呼ばれていますが甲賀や伊賀などの鉄砲撃ちの忍者もいたと言われます。
1657年の明暦の大火により天守閣が焼失、四代将軍家綱は天守の再建を進めましたが時の老中保科正之は戦闘用の天守は不要とのことで再建はされず、富士見三重櫓が天守の代わりとされました。この後この富士見櫓の大きさを超える天守は日本中作られなくなったとのこと。
石室というと氷を保存した冷蔵庫ではと思われますが実際の用途は不明です。大奥の貴重品や文書を保存したのではと言われています。
本丸跡左手の現在は木立のところに本丸大広間と白書院を結ぶL字形の廊下がありこれが有名な「松の廊下」です。元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起こした場所です。上野介は軽傷でしたが殿中での刃傷はご法度であったので、内匠頭はその日のうちに切腹、赤穂藩は取りつぶしとなりました。一方当時は刃傷時間は両成敗のはずが上野介には御咎めは無し、お家の再興も退けられた赤穂浪士が大石内蔵助と共に吉良邸に討ち入り敵討を遂げました。
本丸御殿に通じる最後の門の中雀門跡で門の礎石が残ります。御三家の大名もここで駕籠を降りてたった1人で本丸御殿に向かうことになります。石垣は幕末の火事の高温の痕跡で割れています。
家光時代の天守が焼失後に作られた天守台ですが、小豆島から運ばれた御影石が切込接ぎで積上げられています。保科正之の「太平の世に天守は不要」との進言で天守は建てられなかった次第です。この家光の大天守閣は明暦3年(1657)、完成から僅か19年で 「明暦の大火」 の飛び火のために焼失したと言われています。
天守台を東から見ると石垣が妙に変形していますがこれも大火の痕跡です。からに上部まで焼けていることからかつては2階建ての御殿が隣接していた証と言われます。
現在は広大な芝生が広がる本丸ですが江戸時代には大奥を含む巨大な本丸御殿があったと言われますが現存するものは何もありません。
北桔橋門はその名の通り江戸時代は跳ね橋がかけられていた門です。門から天守台までの距離が近くこの門を破られたら非常に危険な距離ですが、万一の際には橋を落として対応することで防御を行っていたようです。
北桔橋門側の平川濠の石垣は江戸城一の高さを誇り約20メートルにも達し防御と景観の両方で江戸城一と言われます。
北桔橋門から濠を見下ろすと石垣には大名の家紋らしきものが見られます。井マークは黒田家の家紋らしいです。
江戸城の巽二重櫓の反対側の北西側に位置する乾門です。現在は皇室の方の通用門の位置づけの様でいつも警備は厳重ですが一般参賀の時には出口として一般の方も通ることができます。
北の丸の象徴である武道館が見えてきました。東京駅からここまで江戸城の遺構を見ながら約3時間かけて歩いてきました。
武道館を通り北の丸の北側にある田安門は江戸城創建当時に遡る現存唯一の枡形城門であり江戸城最古の建造物です。その木造柱は380年前のままで歴史を感じます。
実際の蝶つがいの部分には建造時の職人の銘が残っています。「九州豊後住人 御石火矢大工(大砲鋳造者)渡辺石見守康直」と刻まれていて大分の職人が関わったのが分かります。銘を残せるだけの仕事をしたということでしょうか。
この時期の牛ケ淵では他の濠では見られないハスの群生を見ることができます。花もあちこち咲いていてきれいですね。桜の時期はもっときれいなんでしょう。
あ今回の江戸城歴史ウォーキングは終わりますが、知らなかった歴史情報も沢山仕入れることができて有意義だったです。このテンションは継続してもう少し深く江戸城や江戸時代、徳川の歴史を勉強し直したいと思います。できるだけ一般参賀や一般公開を狙って普段は見れないような場所に入ってみたいと思いました。(2016/07)