江戸城の歴史ウォーキングに参加してから江戸の文化やら当時の史跡について勉強をしています。当時の江戸城の範囲は相当に広く皇居や内堀は当時の一部でしかないことが分かり、東京に現在でも残る史跡や風景を訪ねたいと思うようになりました。
当時の江戸城は広い要塞でその周囲には敵の侵入を防ぐ濠と三十六見附(城門)があったと言われます。家康はかなりの臆病だったのではないでしょうか。今回その見附を中心に濠を回って歩きたいと思います。 

今回のウォーキングは総武線は両国駅からスタートします。まずは両国橋を渡ります。武蔵国と下総国の両国をつなぐ橋だから両国橋という名前になった次第です。江戸初期はこの橋は無く1657年の明暦大火で多くの人がこの川で行き場を失って死亡した教訓で1661年に掛けられたとのこと。現在の橋には大きな橋頭が特徴ですね。

両国橋から神田川口の柳橋の眺めです。この神田川が江戸城の北の外堀に相当するというわけです。

両国橋を渡ると江戸城外郭内に入ることになりますが、橋のたもとは道幅が広がって視界が広がる感覚がありますが両国広小路と呼ばれます。明暦の火事の教訓から作られた火除地の目的で作られた空地の名残が残ります。

先ほど両国橋から見えていた神田川にかかる鉄橋の柳橋です。橋は1698年に掛けられたということですがこの先は船宿などが多く存在する花街でたいへんな賑わいであったと言われています。外堀の一部だったわけですが当時から橋には門も無く無防備で本当に遊びに行くために専用橋といった意味合いだったのでしょうか。今でも多くの屋形船が係留されています。

今でも多くの屋形船が係留されています。大雨の後でしたので水は濁っています。

そして浅草橋を渡ったところに浅草見附跡の碑が立っていますが、当時は江戸通り側に大きな升形門があったようです。橋を渡ると高麗門があり中に入ると右側に渡櫓の乗った鉄門があって桝形に石垣で囲まれていたとのこと。城の最も東北の防御として日光街道や奥州街道からの敵に備えたようです。

また城の内側には関東群代屋敷跡の碑が建ちますが広い屋敷があったようです。

ここから神田川に沿って柳原土手を歩くと秋葉原方面に向かうことになります。この土手も当時から防御のための土塁であったとのことで次の筋違橋門まで続いていたとのこと。今では途中に左衛門橋、美倉橋、和泉橋といくつか橋が架けられていますが、この和泉橋の名は橋が外掘の外側の藤堂和泉守(高虎)上屋敷に通じていたからと言われます。

JR秋葉原駅から電気街を抜け万世橋を渡ります赤レンガの橋が現れます。

この赤レンガに沿って進むと途中に御成道の説明版がひっそりと建っています。説明板によるとこの辺りに筋違橋門があったと伝えています。将軍が上野寛永寺や日光に出向く際にはこの門を通ったとのことでこの門は御成門と呼ばれていたそうです。
 

外堀に沿って1691年、5代将軍綱吉によって創建された湯島聖堂です。綱吉は儒学の振興に熱心だったようでここに孔子廟を移転させて官学の施設の体制を整えたとのこと。

現在御茶の水駅前には巨大な東京医科歯科大学の高層ビルが建ちますが、以前は湯島聖堂と地続きで昌平坂学問所がありました。幕府の直轄の教育機関として11代将軍家斉が創立し多くの幕臣や子弟が学びました。江戸幕府でも新政府でも活躍した榎本武揚も学んでいましたね。

この湯島聖堂から少し上がったところに神田明神が鎮座します。家康が関ケ原合戦の戦勝祈願を行った縁により江戸幕府により社殿が造営されるなど手篤く保護されたとのことです。

そういえば両さんの連載も今年で40周年で終了するそうです。時代の流れは寂しい限りですね。

聖橋からお茶の水橋に向かいますと交番横に水が流れ出ている場所があります。2代将軍秀忠がこの付近の水が美味しくお茶に適していると言ったことで地名になったと言われます。

外堀通りを水道橋方面に歩くと途中に神田上水懸樋跡があります。江戸時代の水道跡で井之頭池に発する神田川の水が神田川に木製の懸樋を架けて神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していたものです。水道橋の地名もこの懸樋から来ているのでしょう。

途中に小石川門もあったと言われますが跡形もありません。さらに歩いて飯田橋駅すぐに牛込御門の石垣が残ります。1636年阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されました。 この石垣は牛込見附があった場所で門の石垣が残ります。飯田橋駅から出て何で石垣があるのかと疑問を持っていた人も多いと思います。


この飯田橋では神田川が分かれているのが確認できます。左は本来の外濠で江戸城の西側に続いていきます。右は本来の神田川で北方面から流れています。
牛込門跡からは外堀に沿って土手を歩きます。かなり本格的な土手で堀と合わせてく完璧な防御施設ですね。堀や電車を眺めながら散歩するのも楽しいコースです。

市ヶ谷駅に着きましたがかつては市ヶ谷見附の桝形門があった看板が出ています。各駅に外堀の遺構が残っているのが面白いですね。

市ヶ谷駅には外堀を利用した釣堀があって山手線内と思えないのんびりとした雰囲気が漂います。

堀を超えて橋を下りますとこの橋台の石垣は江戸時代のままで刻印が付いているのも分かります。

そして南北線の市ヶ谷駅内で石垣が見れるとのことで寄ってみます。構内にて江戸歴史散歩コーナーなる展示コーナにて雉子橋あたりから出土した石垣を見ることができます。

刻印や矢穴もあってリアリティを感じます。

四谷駅にも石垣が残りますがかつては桝形門がありました。四谷見附門は半蔵門から始まる甲州街道に続く重要な街道で、江戸城に万一の際には家康が搦手・半蔵門から脱出して甲府城へ逃げるために整備されていたと言われます。

橋の反対側には弁慶濠です。

さらに進むと真田堀と呼ばれる大きな堀がありますがグラウンドになっています。野球の練習ができるくらい広大な堀ですのでその広さに驚かされます。

こグラウンドの脇に橋があったそうですが桝形は無く代わりに喰違と呼ばれるクランク状のかぎ道があったようです。近くにホテルニューオータニがあって大型バスが行き来しますが見通しが悪く非常に通りにくそうです。

国史跡江戸城外堀跡 喰違見附の説明板が建っていましたがこういうのがあるとありがたいです。。


その2へ続く。