喰違見附の細いクランクを抜けると見えてくる巨大ビルはホテルニューオータニです。やっと赤坂まで来たなという実感がします。
喰違見附を背に進むと坂を下りますが紀尾井坂でこの辺りに紀伊(紀州徳川家)、尾張(尾張徳川家)、井伊(井伊家)のそれぞれの屋敷が続いていたことから紀尾井という町名になりました。
紀尾井坂を下ったすぐに清水谷公園がありますが、中には大久保利通哀悼碑が建っています。1878年5月14日朝、霞が関の自宅から馬車で赤坂皇居に向かう大久保が6名の不平士族よって暗殺された場所です。
また公園内には甲州街道の道路工事の際に出土した玉川上水の分水石枡が展示されています。江戸時代に水道が整備されていたことに驚かされます。
弁慶橋のたもとには紀州和歌山藩徳川屋敷の標柱が立っているのを見つけました。よく細かく見て回るともっと標柱があちこちに立っていたかもしれないですね。
当時の雰囲気を残す弁慶濠ですが明治になって作られた新しい橋です。反対側にはボート乗り場もあります。
さて地図を見ると外濠が少し内側に入り込んだ様になった場所に赤坂見附門がありました。当時の桝形の石垣が残ります。建造当時のこの辺りは湿地帯であったらしく巨大な桝形を作るために地盤のしっかりした場所を選んだために内側に入り込んだとのことです。
案内板を見ますと立派な高麗門があり巨大な桝形が確認できます。
赤坂見附交差点から東急ホテル前を通って虎ノ門方面へ向かいますが、地図を見るとこの外堀通りは虎ノ門辺りまで当時ほとんどが溜池であった場所です。水道用にも使われた程水がきれいで二代将軍秀忠が泳いだという記録もあるそうです。 外堀通りでまず大きな目印になるのが山王日枝神社の鳥居です。
途中やたら警視庁の警備が厳しい箇所がありますが首相官邸前ですので当然ですね。
途中溜池交差点には溜池発祥の地の碑が立ちます。確かに明治には埋め立てられてしまった溜池の地名が今に残っているのはその名を残そうとする多くの人々の努力があったのでしょうね。
虎ノ門を進むと突然石垣が現れ驚かされますが、文部科学省には発掘時の石垣を3カ所展示しています。最初の石垣は最も入口の外堀通りに近い場所にあります。
そして中庭と言うでしょうか展示スペースでは石垣の高さを実感できます。
もう一カ所は地下に下りる形で展示スペースが作らていますが合わせて石垣についての解説版がありますので参考になります。
石垣には刻印が確認できます。
江戸城三十六見附の全体図もありましたがそろそろ最後の虎ノ門見附遺跡を探します。
そして道路の反対側の商船三井ビルですが霞が関ビルとを結ぶ陸橋の下に何故か外堀の石垣が顔をのぞかせています。実は分かりにくいのですが現在の道路と若干ずれているため反対側の文科省の石垣とは一連のつながった石垣で、間を斜めに道路が通ってしまったために両側に分かれてしまったということです。
歩道橋の上から撮影していますが、道路の反対に石垣が続いているイメージが分かりますでしょうか。
一応分かりやすように案内板がありましたので参考になりました。
さてこのまま新橋方向まで日比谷通りを超えて外堀通りの一本裏手の河岸通りを進みます。現在の第一ホテルの横の場所に幸橋門の桝形門があったようですが跡は残りません。ここからは堀は数寄屋橋へと汐留の浜離宮大手門とに分かれていきます。JRの幸橋ガードをくぐったところにさ新幸橋碑が立っていますがこれは新しいものです。 JRの高架のすぐ横のガード下を見ると外堀の遺構が伺えます。JRの高架と首都高速の間は一段下がった隙間がありますが、外堀の底を思わせる異常な低さを感じられます。
山下門の遺構は何も確認できませんでしたがガード下に山下橋の表示板が立っていました。
数寄屋橋門も跡形もありませんが場所的には数寄屋橋交差点の辺りになるのでしょう。
鍛冶橋門は国際フォーラム出口からJRの高架をくぐったあたりにあったようです。鍛冶橋交差点の名前が残ります。
見逃すほどの表示板ですが鍛冶橋門跡の解説が書かれておりこの辺りにしっかりと外堀にかかる門があったことを伝えます。
呉服橋門跡は何もありませんが呉服橋交差点から永代通りを少し進んだあたりに表示板がありました。
常盤橋ですがかつての常盤橋は老朽化が激しかったために昭和になってから掛け替えられました。
常盤橋門跡は石垣が残り当時の面影がよく分かりますが2011年の東日本大震災でかなりの被害を受けたとのことで修復工事が続いています。
呉服橋過ぎると次は一石橋がありますが、名前の由来は橋の両側に後藤家があったために五斗と五斗を足して一石ということで一石橋と名付けられたと言われます。また橋の上から八つの橋が見えたことから別名ハツ見橋と呼ばれています。
また橋のたもとにはまよひごのしるべの石柱が立ちます。
神田橋門跡はまた別途。
さて幸橋門に戻りますがここで外堀は北と東に別れるところですが汐留川方面への史跡を探してみます。現在の新橋の名の起こりである橋のあった箇所にはかつて芝口御門という門がありました。銀座8丁目の御門通りと呼ばれる歩道に案内板が立っています。
表示板の絵で分かるように大きな桝形門が存在したとは驚きです。
新橋では汐留のシティセンターの裏に旧新橋停車場が復元されているのを見学できます。そしてこの浜離宮に続く交差点が蓬莱橋と呼ばれるかつての汐留川にかかる橋があったところで名前のみが残っています。
さらに歩道橋を渡り浜離宮を目指します。ここ浜離宮は元々は将軍の鷹狩場でしたが6代将軍の時代には別邸として使われました。
ここにも巨大な石垣が残ります。江戸城の最南の海側の砦として防御の使命があったのでしょう。
巨大な算木積みの石垣を目の前にして驚かされます。
徳川三代が江戸城の防御を考えて作り上げた三十六見附の史跡を実際にテクテク歩いて探し回りました。全長14キロにもなる江戸城郭は想像以上に巨大ですが、普段電車で通る電車沿いであったりよく行く街角であったりと意外と身近で、結局はその江戸城の遺産の中で我々は暮らしているんだなと実感させられました。